統一理論、普遍理論、自己参照理論

http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070604/p2
の続き。
 きちんと定義を与えれば明白である。

 ルーマンが「理論の危機」といっているのは、統一理論の欠如のことである。つまり社会学理論とは何かということについて社会学者の間で共通了解がなく、共通了解にいたる道筋も見えてこない状況のことである。これを「複雑性を溜め込んでいる」と表現している。「複雑性」というのは「実現しうるよりも可能性が多い」ということであり、統一理論は定義上一つだけなのだが、これも理論だ、あれも理論だと、複数の可能性が存在することをいっている。複雑性と不確定性は同じ事態を別の方向から捉えた言葉である。ルーマンはこの点で複雑性をなくすこと、つまりこれが社会学理論だ!と決めてしまうことは諦めている(し、それだと単に候補が一つ増えるだけなのは目に見えている)。しかし、現状はどんな理論候補がどれだけあるかすら把握できない「不透明な複雑性」の状態なので、これをせめて「透明」にしたいとは思っている。解決可能性の整序と比較、これは等価機能主義の基本発想であり、ルーマンの理論構築上の問題意識にこの発想が生きていることが見て取れる。
 さて、ルーマンは上記課題に、普遍理論の提示で応えようとした。しかしそれは普遍理論なら自己参照理論だという誤った含意関係を前提にした間違った議論であることは前回のエントリで指摘した。上記課題に応えるのにルーマンが本当に必要としたのは自己参照理論である。ルーマンは次のように言う。

普遍性を自らに課す理論は自己参照的な理論である。この種の理論はつねに、対象から自分自身についても何かを学習する。これはつまり、理論が理論それ自体に対して一定の意味を与えなければならないということである。たとえば、理論とはある種の実践である、理論とはある種の構造である、理論とはある種の問題解決である、理論とはある種のシステムである、理論とはある種の決定プログラムである、といった捉え方をしなければならなくなる。そして別の種類の実践、別の種類の構造、等々との差異が対象領域での議論の主題となる。それゆえ普遍理論は分化の理論でもあり、分化の理論であるがゆえに自己を分化の結果として捉えることができる。普遍理論は自己参照理論であらざるをえない、という恣意性の欠如のゆえに、理論という名称はこの理論にとっては正当なものとなる。(Soziale Systeme, p. 9-10)

普遍理論なら自己参照理論、という誤った含意関係を捨象して読む。ここで述べられていることは、自己参照理論なら、社会学理論とは何かという問いに、理論内部で答えることができる、つまりこれが社会学理論だ!と理論内在的に決めることができる、だからいい!ということだ。もちろん、社会学理論とは何か、という問いに対する答えは、その理論の内部では一つに決まるが、自己参照理論を別の形で組み立てたときには別の答えが出るかもしれない。そういう意味で、複雑性の消去は望めない。しかし、社会学理論とは何かという問いに対する答えがどのような理屈で出されているかは完全に見通せる。そういう意味で、複雑性は「透明」である。これが、ルーマンが自己参照理論を求めた理由である。