自分の論文について弁明してみる

三谷 武司,2005,「システムが存立するとはいかなることか――ルーマン・システム理論の超越論的解釈に向けて」,『思想』970,pp. 113-129
 文脈は書きませんが。

システムという対象が元々経験的なものとしては概念化されていない以上、システムが演算するとか、選択するといったことは、経験的に生じている事柄ではない。これらシステムの能作を経験的に確認することは、原理的に不可能である。(p. 125)

これをもって、拙稿がルーマン理論と経験的研究の無関連性を例外的に強く主張している、と言われるとそれは少し違うと思う。確かに拙稿では、システム概念の、ひいては「システムが〜する」という命題の指示対象の非経験性を強く主張しているが、他方で、上の引用のすぐ後に、

そもそもルーマンの課題は、経験的領域に生じる出来事について語ることが、すなわちシステムの水準での存立維持について語ることを意味するような理論装置を見つけることだったのである。(p. 125)

といったり、また最初の引用より前には、

初期の機能分析においては、多くの対象がシステム内の複雑性構築機能を担わされている。だがこの種の規定では、具体的にはどのようにしてシステムが崩壊に至るのか、どの程度の複雑性があれば適切と言えるのかについて、明言することができない。複雑性領域というのは存在者の領域に対して超越論的な領域であり、その領域内での存立を議論している限りは、具体的な言明ができないのは当然とも言える。この点について具体的に語るためには、少なくとも経験的領域と絡めてシステム存立の条件を論じる必要がある。経験的領域とはまさに存在者の領域であり、要素の領域である。(p. 123-124)

といったりしており、もちろんシステム概念の非経験的性格であるとか、それを超越論的と形容することについては異論がありうるが、仮にそれらの点を認めてもらえるなら、拙稿はむしろ、ルーマンの理論展開上の意図を、そうした非経験的・超越論的に考えたシステム概念と、経験的研究との間の橋渡しの努力として解釈し、まさにこの点にこそ後期ルーマンの意義を見出し、またその橋渡しの欠如こそが初期ルーマンの問題点であることを述べているのであるから、どちらかというと経験的研究との関連性を例外的に強く主張しているとも言えるのではないかと思い、むしろ条件つきでもよいからほめてもらってもいいのではないかと思うのだが如何w。