「編集権を放棄したに等しい」という認定の意味は?

 NHK裁判の判決全文を読んだ。

期待権が認定された理由

 そこで、昨日のエントリに対するたかしたんのコメント。

期待権」は今回のドキュメンタリーの場合などのように生じる、取材される側の保護されるべき権利。一方で報道側の編集・報道の自由という権利もある。これらはどちらも大事な権利で、場合によっては衝突する。しかし今回のケースでは、NHKが政治家に過剰反応して番組を変えてしまったので、守られるべき権利としての「編集権」を逸脱している。よって「期待権」の貫徹がこの場合妥当であり、報道の自由を否定しているわけではない。

 これは、取材者側の編集権と取材対象者の側の期待権がつねに並存していて、衝突する場合には場合ごとにどちらかが相対的に優先されるが、今回の場合はNHKの「政治への弱さ」という事情のために編集権が放棄されたとみなされ、それゆえ期待権が残った――ということを言っているのだと思うが、もしそういう意味だとしたら間違っていると思う。期待権はつねには発生せず、発生した場合にはその保護がつねに優先される、というのが正しい解釈だろう。

番組制作者の編集の自由と、取材対象者の自己決定権の関係については、取材の経過等を検討し、取材者と取材対象者の関係を全体的に考慮して、取材者の言動等により取材対象者がそのような期待を抱くのもやむを得ない特段の事情が認められるときは、番組制作者の編集の自由もそれに応じて一定の制約を受け、取材対象者の番組内容に対する期待と信頼が法的に保護されるべきものと評価すべきである。(p. 52)

それゆえ、

このような期待と信頼を故意又は過失により侵害する行為は、法的利益の違法な侵害として不法行為となると解するのが相当である。(p. 52)

というわけだ。
 で、今回期待権が認定された「やむを得ない特段の事情」というのはNHKが政治家の思惑を忖度して云々という事実ではなく、バウネットに協力を依頼する際に「こんな番組になるはずだから協力してくれ」というふうなお願いの仕方をしたということでしかない。この事情だけで期待権が発生しており、その期待を侵害する行為が不法行為だといわれているのだから、NHKでの編集がどんな意図で行われたものであるかに関係なく、(放送するなら)バウネット側の期待通りの番組を放送しないかぎり不法行為と判断されてNHKは敗訴になるはずではないだろうか。この意味では、裁かれたのは「政治への弱さ」ではなく「取材申込時の不手際」でしかない。

編集権の濫用

 他方で、「政治への弱さ」が編集権の「濫用」「逸脱」とみなされているのはそのとおりのようだ(なので昨日の私のエントリの解釈は間違っていた)。その文脈を確認したい。この判断が出てくるのは、次の項目においてである。

これ[=「実際に放送された本件番組の内容は、一審原告らの期待と信頼を侵害するものであった」という判断]に対し、一審被告らは、実際に放送された本件番組の趣旨は、本件提案表の記載に沿ったものであると主張するので、本件番組の放送に至るまでの編集行為について検討する。

このあと、編集過程についての事実が認定されていき、それが

松尾と野島が相手方の発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度してできるだけ当たり障りのないような番組にすることを考えて試写に挑み、その結果、そのような形へすべく本件番組について直接指示、修正を繰り返して改編が行なわれたもの(p. 59-60)

であると認定される。そしてこの認定に基づいて、

一審被告NHKの本件番組の制作・放送については、前記認定のような編集過程を経て本件番組を完成させ放送した行為であることに照らすと、前記のとおり憲法で尊重され保障された編集の権限を濫用し、又は逸脱したものといわざるを得ず、取材対象者である一審原告らに対する関係においては、放送事業者に保障された放送番組編集の自由の範囲内のものであると主張することは到底できないというべきである。(p. 62)

といわれることになる。
 さてよくわからないのは、番組の趣旨が提案表の記載に沿ったものであるかどうかを判断するのに、どうして編集過程を逐一見ないといけないのか、という点である。番組の内容を提案表の内容と照らし合わせてチェックすればいいのではないか。このつながりがわからないため、編集権の濫用、逸脱、さらには放棄、とまで断ずる必要がつかめない。特に上記引用の直前には、

本件番組が取り上げる女性法廷は、いわゆる従軍慰安婦問題という人道に対する罪の戦争責任を問うもので、フェミニズムの問題を含む微妙で議論を呼ぶテーマであり、公平性・中立性や多角的立場からの番組編集が必要とされるものではある。(p. 62)

と指摘しつつ、結局編集の結果として「公平性・中立性や多角的立場」が保障されたのかどうなのかについて判決は何も述べていない。どういう理屈で考えたらいいのかわからないので誰かわかったら教えてほしい。

編集権の放棄

 編集権を「放棄」したに等しいといわれるのは、説明義務違反を指摘する文脈である。NHKガイドラインでは、番組内容の変更については一般に取材対象者に対して説明義務があるとしているが、判決ではその法的義務としての一般性は否定し、

放送番組の制作者や取材者は、番組の内容やその変更等について、これを説明する旨の約束がある等、特段の事情があるときに限り、これを説明する法的な義務を負うと解するのが相当である。(p. 64-65)

と述べる。そして、本件では取材対象者に期待権が発生しており、かつ被告がそのことを認識していたという事実が「特段の事情」に当たるとしている。で、説明しなかったから義務違反だということになる。
 さて、やはりこの点についても、NHKの「政治への弱さ」とは独立に説明義務が認定されているのであって、

一審被告NHK憲法で尊重され保障された編集の権限を濫用し、又は逸脱して変更を行なったものであって、自主性、独立性を内容とする編集権を自ら放棄したものに等しく、一審原告らに対する説明義務を認めても、一審被告らの報道の自由を侵害したことにはならない。(p. 65)

といわれても、そもそも編集権を自ら放棄していなくても説明義務は生じ、やはり説明しなければ違反になるのではないかと思ってしまう。

まとめ

 というように、NHKの「政治への弱さ」は判決の理由づけとは独立の論点で指摘されているように見える。これは大いなる確率で私が基本的な何かをわかっていないからだとは思うが、そうならわかりたいのでわかる人に教えてもらいたいと思う次第である。