コミュニケイションとか社会性は主観的なものとして概念化可能である件

 他人という概念は、誰かの主観に定位しないと意味を持たないわけで、だから社会性というのを他人との関係という意味で考えるなら、それは主観的なものでしかない。コミュニケイションにしても、我々がよく知っているあの、質問したら答えが返ってくるとか、お願いしたらしてくれるとか、そういったものをコミュニケイションと呼ぶなら、それは主観的な現象である。いわば脳内現象だ(ここで「脳内」という言葉はある種ふざけて使っている。「意識内」と読み替え可能)。
 AさんとBさんのコミュニケイションというときには、Aさんの意識に「脳内Bさん」が出現していることが必要条件である。「脳内Bさん」が現れていない限り、AさんがBさんとコミュニケイションするといったことはないように思う。
 では、Bさんの客観的実在は必要条件だろうか。必要条件だとすると、実体のない妄想的な「脳内Bさん」との会話だけではAさんはBさんとコミュニケイションしていることにならない。これは必要条件とすることもしないことも可能だと思う。他方、自分と他人とのコミュニケイションについての我々の直観を表現するという目的にとっては、必要条件としない概念化で十分であると思う。
 さて、ルーマンはコミュニケイションを、情報・発信(*)・理解という三つの選択の綜合だという。BさんからAさんへの質問というコミュニケイションを考えよう。質問内容が情報、質問という形での発話行為が発信、Bさんがこれこれの質問をしているというAさんの知覚が理解である。理解はAさんの脳内現象だ。

(*)Mitteilungを「伝達」と訳すのが定訳になりつつある(というのは私の希望的観測で、もうなっているorz)が、ルーマンがMitteilungを英訳するときにうまいのがなくてしょうがないからutteranceにしましたという旨の発言をしていること、またこの概念に「伝え達する」という含意はないことから、私は「発信」の方が好ましいと思う。「伝達」はÜbertragungの意味にとるのが普通だと思う。

 さらに、ルーマンは理解とは情報と発信の区別の理解だという。理解という概念の成分として情報と発信が含まれている。理解が脳内現象なら、情報と発信もそうだということになる。さて前段の議論から、私はそれでもいいと思う。それでも、我々の直観に近しいコミュニケイション概念になると思う。この場合しかし、情報・発信・理解という三つの選択が別個にあってそれらの綜合がコミュニケイションだという説明は成り立たない。情報と発信を二つの次元とするベクトルを定めるという意味での、理解という脳内操作が一つあるだけである。綜合という言い方を保持するとしても、せいぜい情報と発信の二つの選択が綜合して理解になるということしかできない。
 ルーマンのコミュニケイション概念を理解に還元して解釈する立場は、このような形で、コミュニケイションとか社会性といったことを、つまりは社会的システム、ひいては全体社会というものを、ある種の脳内現象の集合として捉えざるを得なくなる。これは社会的なものを心的なものではない水準で立てようとするルーマンの目標とはまったく整合しない。それゆえこの解釈は間違っている。
 この方向を回避するには、情報・発信・理解がコミュニケイションの成分だというときの情報・発信と、情報・発信の区別を理解するというときの情報・発信とを、当然には同じでないものとして捉える必要がある。つまり、情報を発信するBさんの客観的実在を必要条件とするようなコミュニケイション概念の解釈が必要である。そしてこれは、互いに他に対して二重偶然性を体験している二つの心的システムの存在を、コミュニケイション成立に必要な設定として置いているルーマンの所説とも、もちろん整合的である。
 しかしこちらの解釈は、そもそもコミュニケイションという単位を理論の中に導入する必要があるのか、という疑念をもたらす。この件については次回。