人文総合演習B 第6回 清水真木『これが「教養」だ』

これが「教養」だ (新潮新書)

これが「教養」だ (新潮新書)

本書は、「教養」についた飾り(=読書とか)を削ぎ落として、教養の本来の姿を取り戻すことをテーマにしていました。それが、教養とは問題解決能力のことだという話なのですが、議論の中では、そのような形で定式化された教養に対して、あまり魅力が感じられていなかったように思います。
一つには、「本来だからなんなの?」という So what? 的な疑問があるでしょう。「教養」についていたのは不要な飾りにすぎなかったのかもしれないけど、その飾りが魅力的だったんだよねー、と。そして、削ぎ落とされた飾りは、実は「教養」以外のところではなかなか輝けないんだよねー、と。
もう一つは、問題解決能力という定式化それ自体の味気なさがあるでしょう。これも一つには、「問題が解決できたからなんなの?」という面があるでしょうが、問題解決能力という性質は、問題の発生に対してすごく受動的だという面もある気がしました。
問題というのは、すべての生き方に同様に降りかかってくるものではありません。他人と関わらないようにする、みたいな消極的な生活をしていれば、問題自体があまり発生しないでしょうし、様々なことに手を出し、様々な人とかかわりをもっていこうとすれば、そのぶん生じる問題も多種多様多量になるでしょう。ところが問題解決能力として定義された教養概念は、どのような生き方が好ましいか、潜在的な問題群に対してどのようなスタンスをとるべきなのかを何も教えてくれません。この点が、著者の(「本来の」)教養概念の魅力のなさに通じているように思います。
この人文総合演習自体が「教養科目」であることもあって、私自身も教養についてはいろいろと考えるところがあり、自分なりの定義じみたものも持っているのですが、そろそろ長くなったので(笑)、それは「啓蒙」概念と密接に関わるものだというヒントだけ示しておくことにします。いずれにせよ、大学生のみなさんは、教養とか知識とか能力とか研究とかといったことについて、少なくとも自分の人生と絡めて考え抜くことが望ましいように思います。この望ましさは、私の考える教養概念と関係することなのですが、それについてはこの授業をやっていく中で追い追い。
 
以下、出席者のコメント。

  • むずかしい話でした。これから先、いろいろな問題に触れたときに上手く解決できたらいいなと思いました。

  • 教養は、その人自身の中で比べられるものであり、その人自身が身につけるか、つけないか判断するべきであるものだと思いました。自分らしさという意味での教養も他人と比べるべきものではないと思います。

  • あまり考えがまとまらず、発言の機会をもらえたのに議論を活発にする意見のやり取りをすることができなかった。先生に指摘され、自分の持つ意見が深いところまで突っ込めるものだと気づき、もっと考えを固めることができていれば・・・と後悔してしまった。今後はこんなことがないように、きちんと意見をまとめて発言していきたいと思う。

  • 教養は絶対に必要なものであるとは一概には言えないものであると感じた。教養が必要であるかどうかは、その人の生活の環境によって変わってくるものであると思う。

  • 教養というものは、私もあるに越したことはないのではないかと思う。教養は、生きている人間を表面的に見てもあるかどうかが分かるものではないので、人からの評価に関わらず自分自身の内側でコツコツと養っていくような性質のものなのかなと思う。ただし、教養それ自体に対して価値を見出さない人々も少なからずいると思うので、その存在は理解すべきだと思った。

  • 今、私たちがつかっている、読書や知識という意味の「教養」が世の中で広く用いられているのだから、別に本来の教養とは何か、なんてどうでもいいじゃないか、というのが最初の感想でした。議論中は誰がどの教養を言っているのかわからなくてついていくことができませんでした。役立たずですみません・・・。

  • 私はやはり教養はあるにこしたことはないと思う。何をするにしても知識やそれまでの経験は必要になってくる。今後自分の生き方を考える上でも、今様々な見方や知識を取り込んでおいた方がよりよい選択につながると思う。また、話は変わるが私は問題のない日々を楽しめるとは思わない。なかなか毎回議論がはずまないのが少し残念。

  • みんなの意見をきいたり、議論していくにつれて、「教養」というものが何なのか分からなくなった。著者1人の考え方だけで、「教養」を定義付けてしまうのもどうかと思った。

  • 人の生き方の良し悪しについて考えるのはとても難しいです。見識高く積み上げられた問題をしかめ面でにらめつけながら生きていくのか、何も知らないでいつも微笑みながら生きていくのか。極端かもしれませんが・・・。「知識欲=本能」と知りながらも、傷つくのはコワイ。ちっぽけなように見えて、人の人生は強大です。次回からは進んで意見を言えるようになりたいです。

  • ツイッターで未知の言葉に触れた時、何かしらの対処ができることは、筆者のいう「教養」にあてはまると思う。しかし、ここで地雷を踏まず、スルーすることも、「日常における問題をうまく解決」できているように思われる。故に、教養は必ずしも、読書や勉学によって得られる知識は必要としないと思う。

  • 報告者の感想  自分の考えを分かりやすく伝えるのが大変でした。教養という難しいようなテーマでしたが、自分一人では気付かなかった意見や考えを皆で話すことができて、良かったです。

  • 報告者の感想  今日の話題はすごく難しかった。教養を手に入れる判断は個人によるからであると思った。本にもでてきたが、今は市民社会ではない。教養を考えなくていい人もいる。一般論でこうすべきとか、個人の好みに任すとかの話で、人によるとか言ってしまえばそれで終わりでよいような話題であったので、すべての人はこうすべきっていうめいだいみたいの見つからなかった。本にでてきたが、万人共通の教養に関するめいだいみたいのは無意味なのかと思わされた。

  • コメンテータの感想  議論の中での「教養」が、筆者の言う教養なのか、今まで使われてきた教養なのか、やや不明確だった。最後も、なんとなく教養=知識がたくさん的な流れのように思えたけれど、これは、筆者の言う教養に必ずしも当てはまらないんじゃないかと思った。そんなわけで今回、他の人の発言内容を理解するのが大変だったし、自分の中でも、まだ教養と「教養」の区別がしっかりなされてなかったのかなと反省した。

  • コメンテータの感想  この本によって、今までの教養に対するイメージを壊された気がします。報告者の考えを受けて、さらに自分なりの意見を加えていくことの大変さを実感しました。報告者、コメンテーター以外の人の意見の中には納得できるものもあって、より考えが深まったと思います。清水氏の教養とは別ものであっても、私はこれも「教養」なのではないかと思います。

  • 司会者の感想  やっぱり議論しづらかったですかね・・・ 沈黙続いてしまいました。もっと議論がスムーズにいくように、司会者として努力が必要だったと思います。また司会者としての経験を通して、本当に議論に参加することの大切さを知りました。どんな発言であっても、司会者としてはありがたいものだなと思いました。先生にずいぶん助けられました。申し訳ありませんでした。