Tim Burton監督『Planet of the Apes』(邦題:PLANET OF THE APES/猿の惑星)

想像以上にひどすぎワロタ。
主演のMark Wahlbergって、何考えてるのかわからん表情の人なんで、自分に起こった異変をどう理解しているのかがわかりにくいんだよねー。つまり、主人公にとって何が驚きなのか(ショックなのか)が不明なまま話が進んでいくので、どうも感情移入ができない。
自分としては、やっぱ人間が言葉を、しかも英語をしゃべってる! というところに衝撃を受けたのだが、猿も含めてまわりがみんな英語を話すということについて、主人公がどういうリアリティの水準にいるのかがさっぱり。
言葉の問題でいうと、人間と猿が共通言語を持っているということは、人間と猿(動物)の関係が反転したわけではなく、支配者(猿)と被支配者(人間)の関係になったということなのだが、しかし猿の女の子が、人間の女の子をペットにするシーンとかがあったり、かと思えば、議長の家では人間はただの(奴隷的な)召使のような地位にいるし、というわけで、同じ言葉を話す存在に対する倫理、社会正義がどういうことになっているのかが不明で、であるがゆえに、Ariという議長の娘のメス猿の平等主義も、猿社会にとってどの程度突飛な主張なのかも捉えがたい。
猿社会の文明化の度合いも不明で、馬には乗るが飛び道具や船は持っていない。船を持っていないのに、主人公の「あっちに俺の船が来ているはずだ」的発言は理解できるらしい。主人公は、廃墟と化した宇宙船のヴィデオログをちょっと見るだけで、自分がタイムスリップしたことや、宇宙船はタイムスリップしなかったことを全部理解する。まあそれはよいとして、横で見てる猿まですべてを理解するはいかがなものか。猿社会にタイムスリップという概念があるのか。
ラストシーンは、過去に戻ったにもかかわらず、猿社会が現代米国にまで進歩していて、未来において自分がやっつけたはずの悪い将軍が、伝説の英雄として讃えられているのを見る、というあまりにも荒唐無稽で、ポルナレフ並に何を言っているのかわからんものである。そもそも、主人公を含めたポッドの中のすべてのものが、現在を維持したままでタイムスリップしているのに、なぜ年月日表示盤だけが変化するのか疑問だ。
しかし、一番驚いたのは、主人公が悪者をやっつけて、ポッドで宇宙に還る手前のシーンで、メス猿のAriと人間のDaenaの両方に、(口に)キスをしたときだ。たしかに、Ariは主人公に対して不要に顔を近づけて気持ち悪い仕草をし、Daenaは遠くから微妙な顔で主人公の方を見ている、というシーンが、それまで10回くらいあって、なにこれ? と思っていたのだが、なんとこの物語の最大のテーマは、種の壁を越えた三角関係モノだったのだ。いやこれはほんとに驚いた。オリジナルの自由の女神級に、全身に衝撃が走り、すべてを理解した瞬間だった。