人文総合演習 第7回



「殺人」には、殺した人、殺された人、そしてそれ以外の人の、少なくとも三者がいます。もちろん、それ以外の人には、事件の関係者、事件には無関係だが事件自体は知っている人、事件があった事自体知らない人がいますし、事件の関係者は加害者の関係者と被害者の関係者に(概念上は)わけられますし(概念上は、という限定は、母親を父親に殺された子供は、加害者と被害者双方の関係者だからです)、また加害者を探して捕まえる人(警察)、こいつは有罪だから刑罰を加えたいと申し出る人(検察官)、いやちょっと待てという人(弁護人)、有罪かどうかやどんな刑罰を加えるかを決める人(裁判官)とかがいます。もっといろいろいるでしょう。
このように、一つの現象には、きわめて多くの人が、それぞれの位置づけを与えられて関わることになります。そしてこの位置づけは、人を殺すということについての倫理的評価、当事者に対する公式・非公式の(制度的・感情的な)人間関係、法律によってある種の人々(警察など)に与えられた実力行使を伴う特権、そういった特権によって侵害されないように保護された憲法上の人権といった、ありとあらゆる種類の(公式・非公式をすべて含んだ)意味の体系によって決められています。だから、何か一つの現象について論じる際には、それと意味的な関係を取り結んでいる別の事柄への言及が不可欠です。そうでなければ、そのつどの思いつきによるアドホックな議論にしかならないでしょう。
その点からいって、今回の報告は、ある種のモデルを示しています。報告者は、殺人という現象それ自体から視線を少しずらし、それに付随する「死刑」と、それに関わる「裁判員」という制度的現象を取り上げました。
モデルになる、というのは、死刑制度の是非について論じるために、まず刑罰一般についての議論を構築しているからです。死刑というのは(懲役刑や罰金刑と同様)刑罰の特殊事例ですから、刑罰一般についてそれを行うべき目的とか、刑罰一般が侵してはならない禁止領域があるのだとすれば、特殊事例である死刑についても、その目的に資するものでなければならないし、その禁止に従わなければならないはずです。他方、そうした、より一般的な水準での議論がない限り、一貫性のある論理的な(つまり人を説得することのできる)議論にはならないでしょう。
この点報告者の議論はスマートです。刑罰とは、犯罪という形で通常の社会生活から逸脱してしまった人間を、通常の社会生活に復帰させるためのサポートである、と。そして、犯した罪の重大さへの自覚、反省、償いやお詫びの意識というのは、この復帰のための手段だ、というわけです。「犯罪抑止効果」や「遺族の気持ちのケア」は、(結果的にそういう効果があったとしても)刑罰の「目的」ではない、という明確な立場を取っていることに注目です。
さて、この刑罰一般論上の報告者の立場がどの程度妥当であるかはともかくとして、少なくとも一つの報告の内部では、これが、特殊事例である死刑制度の是非を論じるための明確な基準になります。つまり、殺人者を死刑にすることは、殺人者の社会復帰のサポートになるか、ということです。死刑にしてしまっては社会復帰ができませんから、これは「ならない」が正解。だから、死刑は刑罰として失格だ、と。すごく明確な議論です。
他方で、死刑は刑罰として失格、という結論に、直観的な違和感を覚える人は、報告者が置いている前提(=刑罰一般の目的)に誤りがあるのではないか、とこれまた論理的に明確な反論を構築することができます。テーゼの呈示が論理的であるならば、反対のきっかけが直観的・感情的なものであったとしても、アンチテーゼを論理的に提出できるようになるわけです。
さて、もちろん、レジュメの文章は、これほど論理的に明確に書かれているわけではありません。疑問の余地のある推論もあるし、どうつながっているのかわからない議論も書かれてはいます。ただ全体の構成が(つまり節構成が)しっかりしていると、それらが無駄な枝葉として無視できるということも、明確にわかるわけです。
ちょっと長くなりすぎましたので、司会について一点だけ。演習の場での議論を活発にするために、司会者が「賛成」と「反対」を尋ねることがよくあります。そして、いつも私が、「どっちでもない」的な答えをして、司会者を困らせてしまいます。でもいじわるをしているわけではないんです。
「賛成」と「反対」の二値で議論ができるのは「命題」だけです(命題は真と偽のどちらかだからです)。なので、「報告者のこの意見に反対の人はいますか」だったら大丈夫です。ところが、「報告者は死刑制度に反対ですが、みなさんは死刑制度に賛成ですか反対ですか」だと、困ります。なぜなら、死刑制度(をはじめとする制度一般)に対しては、少なくとも「なければならない」「なくてもいいがあった方がいい」「あってもいいがない方がいい」「あってはならない」の四つの立場が取れるからです。特に死刑のような国家の権力行使については、こういった立場の違いが、議論を立法上の(つまり民主主義の)水準で行おうとしているのか、それより上に立つ憲法上の水準で行おうとしているのか、の違いにつながってきます。この点、今後の司会の人は踏まえておいてください。
長くなりすぎた、と書いてから、さらに長くなりすぎました。今回はこの辺で。
 
以下、出席者のコメント。

  • 今まで、裁判員制度といっても、制度のしくみはよくわかっていませんでした。今回の議論で、少しそのしくみがわかってよかったです。でも、特定の人たちだけではなくて、もう少しみんなの意見をききたかったです。

  • レジュメがよくできていたし、意見に一貫性もあったのでとてもよかったです。そのせいでついしゃべりすぎました。ごめんなさい。

  • もともと死刑制度には賛成でしたが、今回の演習で、「人を殺しておいて、自分だけは生きる権利があると主張するのは卑怯だ」という意見を聞いて、よりいっそう死刑制度は存続すべきだと思いました。

  • 裁判員制度について、導入された背景には、おそらく国民感情が世論等と裁判官の下した判決がずれてきたと考えられたことがあると思う。それを世論等が考える相応のものに近づけるために作られたのだとは思うが、感情的な判断が入ってくるのではないかという判断が入ってくるのではないかという心配もある。試みとしてはおもしろいものであると思うのでやってみればよいと日和見的に考えているが。まあ、感情といっても裁判官が多少そういった方面を制御するだろうからそこまで心配するべきではないと思う。

  • この本を読んで、人殺しや死刑、裁判について自分がどれだけ他人事と思っているか実感しました。裁判の公平さ、冷静さと、感情を入れる、ということは全く反対のことなので、両方合わせるのは難しいと思いました。

  • 死刑制度についての議論は尽きないだろうし、それくらい難しい問題だと思った。

  • 罰を受ける事が、罪を償う事になるのか、そもそも殺人事件に於いて罪を償うとはどういう事なのかよくわからなくなった。

  • 報告者のレジュメの書き方が上手くて、意見を考えやすかった。司会者もうまくて討論しやすかった。裁判員の問題は考えれば考えるほど、頭がこんがらがってしまった。

  • 社会問題だったので今後もよく考えていかなくてはいけないと思う。考えがうまく人に伝わらないので、ちゃんと言えるようにならないと議論が難しいと思った。

  • 話のテーマが殺人についてで重く、ニュースとかでも避けたくなる話だが、この機会に話し合いができてよかった。裁判員制度とかはよく分からなかったので知れてよかったし、いろいろな意見が聞けてよかった。

  • 今日の議論をするまで、死刑制度には賛成で、裁判員制度には反対だったんですけど、レジュメを読んだり議論を聞いていて、それぞれの良い所・悪い所を考えさせられました。でも最初の意見は変わりません。とても考えさせられる内容でした。

  • 報告者の感想  今回、報告をして、レジュメ作りは大変だったけど、議論しやすいポイントだったというのもあって、盛り上がって良かったと思います。難しい問題で“答え”に行き着ける問題ではなかったけど、いろんな意見交換ができて自分もすごく勉強になりました。司会の○○くんには助けてもらったと思います(笑)。

  • 司会者の感想  最近寒いので皆さん体にお気をつけください。