人文総合演習A 第14回



先週に引き続いて体調っていうか頭の調子が思わしくないんですよね。するとどうなるかっていうと、教員としての立場を維持するための緊張感がなくなって、超然としていられなくなるわけです。まあ、所詮思いつきでしゃべってるだけなんで、基本的には穴だらけだと思いますので、「先生のお言葉」的にはとらないでくださいね。あとまあ、逆に言うと、議論に参加しないではいられないくらい、テーマが面白いということでもあるんですけどね。

さて今回の報告者は、以前自由について報告した人で、そこでは「自由を認識するためには他者が必要なのであり、その他者とは自己と違いのある存在である」と主張したわけですが、それを受けて、今回はそこで検討が不十分であった「他者」について考察すると、そういうシリーズものになっています。こういうのはいいですね。大学の授業って、表面的にはバラバラで、だけど水面下では(担当教員が気付かないところで)相互に連関していたりするので、自分で学期とか年度のテーマを決めて、自分の関心に合致した地下茎を見つけ出すとかね。これはもう、そうしないときと較べて10倍は有意義でしょう。

内容としては、現代人(=オタク)が他者性のない他者を求めるという著者の見解に反して、他者による「他者性のない」反応によって自己が肯定的感覚を得られるのは、まさにその相手が他者性をもっているからである、とまあ私なりにパラフレーズすればそういう議論でした。他者的な他者だからこそ、その人が珍しく他者的でない反応をしたら嬉しい、みたいな感じですよね。ツンデレ的というか(笑)。

自制を失っている(笑)私がつっこんだのは、そういうときの他者の他者性というのは、どの水準での自己との差異によって規定されるものなのか、ということです。根っこから幹から枝葉まで全然違う、ということが他者らしさだとしたら、そんな人と、ある瞬間に見解が一致したところで、それはただの偶然であり、自己が求める肯定感は得られないんじゃないの、と。

ツンデレの話は、いま書きながら思いついたのですが、そのまま議論を続けてみると、普段ツンツンなのが、ある一瞬デレっとしたときに嬉しいとしたら、それは、普段のツンツン(=差異性)が仮象(Schein)であることが見え見えで、デレこそが本質、という基本認識があるからではないでしょうか。えーと、知らんけど(笑)。

まあ、ともかく、面白い議論なわけで、報告者のアプローチも、それがどこまで持ちこたえられるかが気になる、という点でまだまだ修正を続けていってほしいところです。そのためには、他者であるための条件規定、自己が得る肯定感の内実、他者が自己にとって重要であるための条件規定、自他間の差異の水準分け、水準による差異の重要度や意味の違い、などなどについて、より詳細な議論を組み立てることです。もちろん、先行研究を勉強することも大事ですが、勉強だけしててもダメです。「本書を理解できるのは、本書に書いた思想を、自分で考えたことのある人だけだ」ってウィトゲンシュタイン先生も言ってますしね!



以下、出席者のコメント。

  • 第三者の審級とは社会意識と言い換えられるかなぁと思った。
  • 文章の中で正しいと思われることが実際の生活の中で本当に正しいかどうかよく分からないことがあって混乱した。
  • 「自分らしさ」って難しいです。
  • なら、他者性に頼らないで自分らしさを持つ人は・・・ニーチェとか? 小林秀雄とかだろうか?
  • そのじだいでCASE BY CASEでないのが真理なのか?
  • 綾波の次に出てくるのは委員長じゃなくてアスカですよね。この本を読んだ最初の印象は「嘘くさい」でした。
  • 報告者の感想  とにかく、報告者としてダメダメでした。本番に強い人間になりたいです。
  • 司会者の感想  本当、こんな司会ですみませんでした。協力して下さってありがとうございました。