自己参照と複雑性

ルーマン先生曰く、

自己参照がパラドクスになるのは、否定の可能性が存在し、参照する自己と参照される自己のいずれかを否定することが可能であるが、自己参照のためにどちらを否定するかを決定することが不可能となる場合である。パラドクスになるということは、確定可能性が失われるということであり、つまりは次の演算への接続能力が失われるということである。
(中略)
自己参照がパラドクスという形をとると、そこには確定不可能な複雑性が生じる。だから自己参照的な演算を行うシステムは、この問題を解決しない限り、つまり脱パラドクス化しない限り、複雑なシステムにはなれない。(Soziale Systeme, p. 59)

 システムの話はややこしいので、とりあえず自己参照命題と複雑性の関係について。
 複雑性というのは、実現しうるよりも多くの可能性があること。
 「この文は真である」という自己参照命題を考える。この文は、真であるか偽であるかのどちらかだが、両方ではありえない。つまり実現しうるよりも可能性の数が多いので、複雑な命題である。さて、「この文は真である」が真なら、この文は真であるし、偽なら、この文は偽である。というわけで、真か偽かのどちらかに決めてしまえる。つまりこの自己参照命題の複雑性は確定可能な複雑性である。
 他方、「この文は偽である」も、真であるか偽であるかのどちらかだが、両方ではありえないという意味で複雑な命題である。しかし、「この文は偽である」が真なら、この文は偽であるし、偽なら、この文は真である。これをパラドクスというが、こういう意味で、この文は真か偽のどちらかに決めてしまえない。つまり、パラドクスである自己参照命題の複雑性は、確定不可能な複雑性である。