関東社会学会第2日目

 午前は相互行為部会。

第12部会:相互行為・生活/意味世界〔1B棟・3階 1B308講義室〕
司会:小林 多寿子(日本女子大学

1. インタビューにおける相互行為秩序


田邊 尚子(一橋大学

2. 価値意識のパラドックスと差別者の構成


片上 平二郎(立教大学

3. 「社会復帰」という選択・生活を通して獲得される主体性――ハンセン病療養所を退園していった人々の経験から


坂田 勝彦(筑波大学

4. 当事者のパースペクティヴの重要性と限界――心理学化に抗して


大河原 麻衣(首都大学東京

5. ケアと仕事の狭間で――小児がんの子供を持つ母親の葛藤と経験の意味づけ


鷹田 佳典(法政大学)

 田邊さんの報告は、インタヴューにおける質問者・回答者の役割を自明視するんでなくて役割を「達成」と捉えるポジショニング理論というのを勧める話だったが、正直よくわからんかった。

抜粋1では、Aがインタビュイー、Bがインタビュアーであった。このとき、どのように“インタビュイー”であることが達成されているのか見ることにしよう。ここでAは、(中略)というように、自分自身がその写真と関わりがあることを示していっていることを見ることができる。ここで、Aは、これらのディスコースによって、自分が実際にそれを「見てきた」こと、自分が「撮ってきた」ことを示しているのであり、その限りにおいて、Bに対して、自分がその写真について話す立場にあるということ、話す“権利”があることを示していることを見ることができる。したがって、抜粋1でAは、Bに対して、自身を“語る立場にある人”としてポジショニングしていくこと、すなわち、写真に対して相手(B)ではなく、自分自身こそ説明する立場にあるということを示し、そのことによって、“インタビュイー”であることが実践されていくと見ることができる。

「こと」いいすぎw
 なにがわからないかというと、ここで達成、ポジショニング、立場を示す、実践といわれていることは、報告者がおそらく否定しようとしていると思われる「役割を演じる」ということと何が違うのかという点だ。このインタヴューにおいて当事者たちが、質問者・回答者の役割配分が未定の状態からそれぞれの役割を獲得していったのでないことは明らかである。いみじくも引用部の冒頭に示されているように、ここでは最初から「Aがインタビュイー、Bがインタビュアーであった」のであって、「〜になった」のではない。
 むしろ、報告者がそのような配役を読み取り、また聞いている我々もそれに同意するのは、我々の誰もがそのような配役を前提にしているからであるし、その解釈が正しいのは、当事者自身がそのような配役を自明視しているからではないだろうか。そう考えると、ポジショニング理論なるものが従来の役割理論(役割を引き受けてそれを演じる)と排他的な関係にあるとは思えない。
 そもそも「自明視」という言葉の使い方が正確でなく、既存理論に対する悪口にしかなっていないのが問題。自明視しているということは対象化できないということ。配役を自明視している人は、「誰某がこれこれの役割を引き受けた」などとはいえないのであって、それゆえ役割理論が配役を「自明視」することなどはありえない。
 というわけで結論としては、そこでルーマンですよ「構造の下での作動」ですよもう少ししたら酒井・小宮論文が『ソシオロゴス』に載るからみんなよろしくね!ということだコロン。
 まあ以上のことを質問しようと思ったのですが、時間切れで断念した次第。
 片上さんの報告に質問。「隠れてする差別は、その行為は悪いことだという価値判断を伴っているから云々というが、別に悪いと思っていなくても相手からの報復とか社会的制裁が予想されれば隠れてするのであるが、そのへんどうですか(たとえば内部告発とかは善行だと思っていても隠れてするわけで)」。
 お昼は、皆吉淳平、土屋敦、高橋康二、相澤真一、香川めい、村瀬洋一、不破麻紀子の各氏が集まっているところに混ぜてもらう。中華。何人かの方に名刺をもらうも、自分はまだ作っていなくて渡せず・・・。
 午後はテーマ部会。三巨頭揃い踏み。

テーマ部会B 現代の「保守」――何が新しいのか?〔1H棟・1階 1H101講義室〕
司会者:小井土 彰宏(一橋大学
     奥村 隆(立教大学
討論者:高原 基彰(日本学術振興会
     塩原 良和(東京外国語大学

1. 若者/ナショナリズムバックラッシュ<若者の保守化>という問題機制をめぐって


北田 暁大(東京大学

2. 保守と反動のあいだ――ジェンダーはなぜ標的になるのか?


上野 千鶴子(東京大学)

3. ポスト「虚構の時代」の保守化?


大澤 真幸(京都大学

 テーマ自体はあんまり興味ない(が、mixiのような匿名性の低い場所で2ちゃんを真似てあからさまな嫌韓・嫌中発言をしている人たちというのはどういうことなのか、という薄い関心はある。)。
 ところでやっぱりこの三人は前でしゃべっていてオーラが出ている。ただこういう人たちの話は聞いているだけで面白いし快いので、話の内容が頭に残らないという問題がある。ことほど左様に、メディアはマッサージだ。一般に、メッセージを伝えたいときは話がある程度下手な方がいいし、そもそもしゃべらない方がいい。記録とアクセス可能性があればよく、伝達はいらない。
 まあそれはともかく、大澤さんの名人芸には舌を巻く。スターリン、窪塚、コードギアスで、ちゃんと第三者の審級が出てくるし、アイロニカルな没入が出てくる。思想系、時事ネタ、サブカル、自分独自の議論の配分が、10年前の駒場の授業のときと変わらず、当時すでに完成の域に達していたことを示している。
 コメンテータの高原くんもよかった。東大の地下院生室にいるのと同じようなあの聞き取りにくいwしゃべり方ながら、韓国の状況を紹介しつつ、えーと、なんか言っていた(感心していたので内容は覚えていないwww)。あとは会場から鈴木謙介さんが質問したりして、全体に大成功という感じの部会になった。
 帰りは、上記皆吉くんと電車の中で中絶是非論の話をしながら帰った。
 いろいろと刺戟を受けて、楽しい2日間でした。