事象というのは具体的な出来事ではない
確率論では、「標本空間Ωでは、事象Aの起こる確率はpだよ」とかいう。
標本空間(sample space)は、「このサイコロを使う」とか「2回投げる」とか「表か裏かを見る」といった特殊な条件によって区切られる、まあゲームの場みたいなものだ。標本空間は、そこで実現しうる可能性の集合として定義される。この集合の要素を標本点(sample point)といって、何らかの試行の結果(たとえばサイコロを投げた結果)、標本点のどれか一つが実現する。
さて、「起こる確率」を問われる事象(event)というのは、この標本点それ自体ではなくて、標本点の集合である。つまり標本空間の部分集合である。
さて、要素から見て、集合は抽象的である。たとえば「シロ」という犬から見て、「犬」という集合は、それが「シロ」か「ペス」かといったことを捨象したものであって、だから抽象的である。
なので、標本点から見て事象は抽象的である。
試行の結果一つ実現するのは標本点であって、事象ではない。確率論でいう事象というのは、試行の結果一つ標本点が実現することに伴って実現する、標本点の一性質のことである。それゆえ事象それ自体が、一つの固有性を持った出来事として実現するわけではない。
たとえば「サイコロを投げて表か裏か見る、ということを2回繰り返す」という試行によって定義される標本空間があったとして、具体的な出来事として実現するのは、(表、表)(表、裏)(裏、表)(裏、裏)の4つの標本点であって、これらの集合が標本空間である。これに対して事象はたとえば「1回でも表が出る」という性質である。これには(表、表)(表、裏)(裏、表)の3つの標本点が該当し、これらが作る集合(=標本空間の部分集合)として事象が定義される。これら標本点が同時に実現することはありえない。実現するのはたとえば(表、裏)であって、そのとき(表、表)(裏、表)は(もちろん(裏、裏)も)実現しない。しかし、(表、裏)が実現することで、それに伴って「1回でも表が出る」という性質=事象も実現する。
事象というものがこのように、固有に実現する出来事ではなくて、そういう出来事の集合として定義されているからこそ、そこに含まれる標本点の数が、標本空間全体の中でどのくらいの割合を占めているかによって、その事象の起こる確率を測ることができる。上の場合だと、標本空間が4つの標本点で構成されている中で、「1回でも表が出る」は3つの標本点を含んでいるから、この事象が起こる確率は0.75だ、という言い方ができるわけだ。
逆に、事象が具体的に実現する固有の出来事として定義されていたら、その事象の起こる確率の大小を云々することは無意味になってしまう。
追記
標本空間、標本点自体が、現実からのかなり大胆な抽象化によってできていることは、(標本っていっているくらいだから)明らかなことだ。「表か裏か見る」という限定によって、「色は見ない」「誰が投げたかも見ない」「投げ方も見ない」「昼か夜かも見ない」「湿度も気温もどうでもいい」・・・といったことが含意されているわけだ。