事実的行為という言い方

 ルーマンが「社会的システムは事実的行為からなる」というときの「事実的」ってどういうことかな、一方で「社会的システムの構造は期待だ」みたいなことも言っていて、期待される行為は必ずしも事実じゃないだろう(期待はずれがあるんだから)とか思っていたのですが、とりあえず一つわかったことは、この「事実」性の強調は、規範主義的な組織論が「正しい」行為からなる理想的な組織像を前提にしていたことに対する距離化なのだということ(書いてみたら当たり前のことだった・・・)。だからここでは、事実/(研究者の持つ)規範(理想・正しさ)の対比で考えているようです。
 この観点からたとえば、事実/期待(予期)の対比で考えている、

社会システムは行為のシステムではない。行為を可能にするもののシステムである。

という知見からの、

さらにLuhmann [1982]に到るや、生成論に固執する余り、事実的な行為接続が(予期構造を媒介して)事実的な行為接続を生産する、という議論を展開する。当たり前だが行為が行為を生産することはあり得ない。既存の行為・についての体験可能性、の準備とともに現時点での行為可能性を準備すること、すなわちポテンシャリティの布置作業だけが社会システムの働きである。その結果として「行為が繋がっているナ」という体験が供給されるだけだ。ゆえに社会システム論は「事実的行為連関」などという概念を中核に据えるわけにいかないし、事実次元で行為の生成が継続するという把握にも意味がない。彼の記述は誤解を与えるだけである。

宮台真司,「社会学的機能主義の射程」,『ソシオロゴス』11(1987),103頁の註48

という(基本的に言葉遣いについての)批判も考え直す必要があると思いました。