いろいろ
' Gibt es eigentlich den Berliner Zoo noch?'. Erinnerungen an Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: Uvk Univers.-Vlg Konstanz
- 発売日: 1999/11
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Ole Thyssenさんの「ルーマンの思い出」。(その1、その2、その3)
今日は、小ネタをいくつか紹介してこの人の文章は終わりにしようと思います。
まずこの人はいまコペンハーゲンビジネススクールの教授なのですが、60年代以降、ルーマンについてはせいぜいハーバーマスと論争した人くらいの認識しかなかったスカンディナヴィアに、ルーマンを本格的に紹介し始めた人のようです。これが2000年のActa Sociologicaのルーマン特集につながるのかなと思います。
まず92年5月にコペンハーゲンビジネススクールで「組織のオートポイエシス」について、またゲーテインスティテュートで「近代社会の自己記述を毎日与えるというマスメディアの機能」について、ルーマンの講義が行われました。また94年4月にはオスロでStein Bråtenがルーマン理論についてのPh.Dセミナーを開き、これにルーマンも出席しました。Thyssenさんがルーマンに会った最後は94年6月にオーデンセで開かれたルーマン理論についてのセミナーだったそうです。
あと看過できない小ネタとしては
歓談中、ルーマンは自分の人生についていろいろと語ってくれました。第二次世界大戦末期、10代の兵士として荒野に立ち、連合軍機を撃墜しようとしていたこと。フランスの収容所で捕虜として8ヶ月を過ごし、そこでフランス語を習得したこと。またドイツの行政官として働いていた頃、幸運な偶然から、ドイツの公務員を米国の大学に招待するという案内を見つけ、それでハーヴァードに行き、タルコット・パーソンズに会うことができたこと。(p. 150)
というのがあります。この中でぼくが知らなかったのはフランス語の話ですね。やっぱり習得してたのかと。
最後に、98年11月6日にルーマンは亡くなりますが、それに至る経緯はあまり知られていないように思います。ぼくも全然知りません。Thyssenさんの文章から少し情報が得られます。
ルーマンが病気になったと聞いて、私は彼に電話をしました。すると、原因不明の病気で両足が麻痺しているのだといいます。(p. 151)
これがいつ頃の話なのかは書かれていませんでした。さて最晩年になるとThyssenさんも電話は控えて手紙にします。
ルーマンの指導学生だったスウェーデン人のJan-Inge Jönhillが状況を逐次教えてくれました。それによると、ルーマンは家族に護られていて電話での連絡はもうできないが、手紙については、返事は書けないが届くと喜んでいるとのことでした。(p. 151)
ここで最晩年のルーマンを囲んでいたのがどの範囲の家族なのかわかりませんが、それが後に何年間も裁判で争うことになるのですから相続というのはおそろしいものです。