盛山「説明と物語」
- 作者: 先端社会研究編集委員会
- 出版社/メーカー: 関西学院大学出版会
- 発売日: 2005/07
- メディア: 単行本
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調子が上がらないので、癒しを求めて(笑)この前頂いた師匠の論文を読む。論文の大半は、量的調査にも物語性がないわけではないという主張(デュルケム『自殺論』を例として)。しかしこれが、量的調査にも理論的関心が前提となるという主張とどのくらい違うのかがよくわからない。違わないならたいして新しいことをいっているわけではない。
実証的研究というものは、観測された諸事実について説明することがミニマムな目標である。研究者による独自の説明こそが、研究を研究たらしめる。その上で、さらにその説明を物語的に構成することができれば、それは多くの人々にとって興味深い知識となるだろう。(p. 23)
これはなんか、理論的関心といわずに「物語」という言い方をすることで、社会学の知見が一般の人々にとっても面白いものであるかのように見えてくるだけという感じがする。そもそも社会学から社会へのフィードバックを、研究者と一般人の間の知的関心の共通性によって保障するというのは、ちょっと成功しそうにない。知的関心というのは一定の訓練を積まないと持てないから(学問の面白さはある程度その学問を勉強しないとわからない)。やはりそれとは別に、社会学をすることが社会にとって何になる(べきな)のかを考える必要があると思う。(もちろん、学問的な知的関心の充足というのは、社会学が学問として成立するための十分条件ではあると思うけど。)
これに関連してルーマンの話をすると、ルーマンによる機能主義の改良(というか再解釈)は、人々の間の関心の違いを超えて(つまりどのような社会理論を持っているかから独立に)、誰にでも利用可能な知見を社会学が産出するにはどうすればよいか、という問いに導かれていたわけである。とはいえこれはまた別の話。