ルーマン命題の条件依存性

社会学関連分野の専門査読誌『ソシオロゴス』28号(2004年)に掲載された「ルーマン型システム理論の妥当条件:実践的動機の解明と理論の評価に向けて」の全文を以下に掲載します。
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  • 3 逸脱的論点に見られる実践的動機

  • 5 結論

 


1 ルーマン命題の条件依存性


社会学の基礎概念をめぐるここ何十年かの議論にルーマンの所説が与えた影響は無視できないものとなっている。しかし実は、ルーマンの基本命題の大半は「彼のシステム理論を受け入れるなら」 という条件下でのみ妥当するものである。つまりこの条件を外しでも妥当するとはかぎらない。この点をまず確認しよう。

わかりやすいものから始めると「人間は社会的システムの環境である」とか「社会的システムの要素は行為ではなくてコミュニケイションである」という命題がある。これらの妥当が、社会的システムないしシステム一般の定義に依存することは論じるまでもなく明らかである。もちろん「環境」とか「要素」という概念の意味自体がシステム概念の定義に依存するので、妥当どころか命題の理解可能性すら無条件には成立しない。つまりルーマン流のシステム理論を受け入れないならば、以上のルーマン命題は理解することすらできないはずである。

つぎに理解可能性はシステム定義に依存するわけではないが、妥当の方はその定義に依存する例を見てみよう。「行為はコミュニケイションの中で構成される」という命題である(1)。この命題はシステム定義を参照することなく理解可能である。もしこの命題が無条件に(あるいは少なくともシステム定義に依存することなく)妥当するのであれば、行為概念の社会学の基礎概念としての一次性は否定され、どんな社会学理論も行為ではなくコミュニケイションを基礎に組み立てられる必要があることになる(少なくとも行為を基礎に組み立てられではならないことになる)。これはかなり大きな理論的変革であり、ルーマンがシステム理論とは別個に、社会学の一般理論に対してなした貢献だということになるはずである。つまり彼のシステム理論を受け入れない人でも使える命題だということになる(2)

  • (1) Luhmann (1984: 191 ff.) などを参照せよ。
  • (2) 北田(2003) はこの「行為の構成主義」命題をルーマンから受け継ぎ、それを基礎として独自の責任理論を展開している。

しかし残念ながらそうはならない。この命題も条件依存命題だからである。この点を確認するために、まずは命題の正確な把握を行っておく。「構成される」というのは、具体的行為を理論家の視点から一義的に確定することは不可能で、行為の同一性は対象領域での経験的な帰属過程において、そしてその帰属過程によって、はじめて確定されるということを意味する。懸案の命題は、この帰属過程をコミュニケイション過程に限定することによって得られる。

さて、それ自体として検討してみると、この命題はきわめて反直観的であることがわかる。この命題に従うと、何よりもまず、他人がいないところでは行為ができないことになる。この含意を避けるために「構成」の場をコミュニケイションだけでなく、個人の意識や思考にまで拡張しでも(つまり「コミュニケイションの中で」という限定を外しても)、まだ問題は残る。理論家による直接的定義を排し、経験的な帰属過程だけを行為成立の契機としてしまうと、たとえば意図の存在などによって理論家が特権的に行為を認定していたときに較べて、行為として認められるものの数が激減することになる(3)。なぜなら帰属操作の対象として取り上げられることのなかった無数の行為候補が、この概念化だと排除されることになるからである。また、通常は意図の有無によって区別されている行動と行為を、理論家の観点から概念上区別することができなくなるし、ついでにいえば、人間の行為と、その他の生物・無生物の運動とを、やはり理論的に区別することもできなくなる。これらの区別の特権的主体が、経験的な帰属操作の主体に限定されているからである。これらの反直観的帰結を考えると、当該命題を基礎命題として採用すべき内在的理由は乏しいように思う。

  • (3) 行為認定の権限を経験的な帰属過程に委任することによって、行為の解釈可能性が拡大し、むしろ行為として認められるものの数が激増するのではないか、という反論がありうる。これに対しては、ある出来事が行為として認定される場合、その出来事がどんな行為であるかについての解釈可能性の数は激増するが、実際に行為として認定される出来事の数は激減するため、実際に「生じ(たとされ)る」行為の数も激減する、と答えることができる。

内在的理由が乏しくとも、それ自体説得的な内在的理由をもった基礎命題からの含意として当該命題が導出されるのであれば、それが反直観的な帰結であったとしても、とりあえずその妥当を了承せざるをえない(4)。この観点から、「行為はコミュニケイションの中で構成される」という命題が妥当であるためには、どのような命題が前提となっていなければならないかを考えてみよう。先に指摘した反直観的帰結の内容から考えると、それは、行為の理論的同定とか、行動や運動などの類似概念との区別といった事柄は、社会学にとって重要ではないということを含意した命題でなければならないはずである。先に私は、懸案の命題が妥当であるならば、社会学にとって重要なのは行為ではない(コミュニケイションである)という理論的革新が成立すると述べたが、実はこの命題自体が妥当するための前提として上の理論的革新があらかじめ妥当でなければならないのである。

  • (4) もちろん、反直観的な帰結を導くという点で、基礎命題自体の妥当性を疑問視することは可能である。ただし、ここでは指摘にとどめる。

ルーマン理論においてこの機能を果たしているのは、第一に「社会学というのは社会的システムの理論である」という命題であり、第二に「社会的システムの要素は行為ではなくてコミュニケイションである」という命題である。つまり、社会的システムについて論じる際に、行為概念は少なくとも基礎概念としてはなくてもよく(せいぜいコミュニケイションの中で生じるものとして二次的な位置づけを与えておけばよく)、これは社会的システムの理論である社会学にとっても同様である、という組み立てになっている。そしてこれら二つの命題の妥当は、ルーマン社会学構想、あるいはシステム構想一般の妥当に依存する。

確認しよう。ルーマンの議論の組み立てとしては、行為というのはコミュニケイションの中で構成されるものだという命題がそれ自体として妥当していて、だから社会的システムは行為ではなくコミュニケイションを要素としていなければならない、といっているのではなく、あらかじめ社会学にとって重要なのは行為ではなくてコミュニケイションだという洞察があって、だから行為に関してはコミュニケイションの中で構成されるものにだけ触れておけば十分だ、という順序になっているのである。

このように条件依存命題だということは、彼のシステム理論の少なくとも基本構想を受け入れないかぎり、この命題だけを採用することはできないということである。したがって、コミュニケイションの一次性とその中での行為構成という過激(であるがゆえに一見魅力的)な命題をルーマンから引き継ぐためには、この命題の魅力とは独立の根拠によって、彼のシステム理論構想、を受容する必要がある。もちろんこのことは、他の条件依存的なルーマン命題についてもいえる。