ルーマン型システム理論の妥当条件

社会学関連分野の専門査読誌『ソシオロゴス』28号(2004年)に掲載された「ルーマン型システム理論の妥当条件:実践的動機の解明と理論の評価に向けて」の全文を以下に掲載します。
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  • 3 逸脱的論点に見られる実践的動機

  • 5 結論

 


2 ルーマン型システム理論の妥当条件


ではルーマンの(社会的)システム理論を、我々は受容すべきだろうか。この間いに直接答えることは本稿の射程を超えている。その前に、理論が(少なくともその基本構想において)受容に値するといえるためには、どのような条件を充足している必要があるか、という点について考えておかなければならない。というのも、ルーマン理論には、現実との合致や適合といった、通常、経験科学の理論の成否を判断するために用いられる基準が通用しない形で組み立てられているからである。この点はパーソンズのシステム理論と対比してみればよくわかる。

パーソンズが「システム」というとき、それは何よりもまず理論体系、あるいは体系的な理論のことを指している(Parsons1954; 1968)。だから彼が社会的システムと呼んでいるのは、体系的な社会学理論のことである。理論の体系性の基準となるのは変数聞の相互依存関係である。すべての変数がそれぞれ他のすべての変数と直接・間接の相互依存関係にあるとき、理論は完全な体系性を備えることになる(5)パーソンズの「構造機能理論」というのは、観察対象の稀少性、実験の困難性などの条件を課せられている社会学においては、すべての変数をその変域全体について把握することができず、少なくない変数を定数扱いせざるをえないという事情(「次善の理論」) を表した名称にほかならない。

  • (5) 「システム」についてのこのような捉え方は、へンダーソン(によってアメリ社会学に導入されたパレート)に由来する。 Henderson (1935) を参照せよ。よく知られているとおり、パーソンズをはじめとするハーヴァード周辺の社会学者にへンダーソンが与えた影響は計り知れないものがある。

当然だが、この理論体系は現実の抽象化である。現実に観察されるのは個々の出来事、事物、事態だけであり、これらを収集して変数をつくり、これらの出来事、事物、事態に変数の「値」としての地位を与えること自体が一つの抽象化である。さらには変数間の「(相互依存)関係」もまた、現実には観察されない。関係についての言明も、抽象的な分析言語でのみ可能なのである。したがって、変数間関係によって定義される理論体系は、抽象的な構築物である。

パーソンズが「分析的実在論」というのは、このように現実からの抽象化と分析によって構築された理論体系、つまり変数間の相互依存関係を、観念論的な限界から解き放ち、これを再び現実の方に逆投影することによって「経験的体系」という言い方を許容する、という認識論上の立場を指す用語である。もちろん、これは近代科学のオーソドックスな作法であって、社会学に固有の事情を反映したものというよりは、社会学の近代科学化を目指したものである。理論の地位に関するこうした立場をモデル主義的システム理論と呼ぶことにする。

モデル主義では、理論は現実のモデルである。だから理論の妥当性は、現実に対する適合性、あるいは現象の説明力によって測られる。つまり現実適合的な理論が、妥当な理論である。反対に、違背的な現象が生じた場合には、その理論は妥当ではなく、修正を必要とすることになる。いずれにせよ、理論と現実との適合性、パーソンズの言葉でいえば、現実からの抽象化によってつくられた理論体系と、それをいわば型として現実をくりぬいた経験的体系との合致こそが、理論の妥当性を保証するのである。

ところがルーマンのシステム理論は、こういう形で妥当性を保証されるような構成にはなっていない。まず、彼のいう「システム」は、理論のもつ性質としての体系性を意味しているわけではない。ルーマン理論では、システムというのは理論の中に登場する対象であって、理論そのものではないのである。パーソンズのシステム理論を「システムとしての理論」ということができるなら、ルーマンのシステム理論は「システムについての理論」だといえる(6)

  • (6) この違いは、両者の間の継承関係を最小化するほどに大きい。だから両者の間に実質的な継承関係があると考える議論はすべて誤りである。ルーマンパーソンズから継承したのは、社会学の一般理論を構築してやろうという意志と、システム、二重偶有性、メディアなどの用語だけであり、その意味ではない。この点については目下別稿を構想中である。

ルーマンのいう「システム」が具体的な対象であることは、彼が個々の対面的相互行為や組織、個々の社会を、すべてシステムと呼んでいることから明らかである(これに対してパーソンズの場合、具体的・個別的な対象は「行為」であり、社会的システムと呼ばれるのはこの行為を分析することによって得られる社会学的変数間の相互依存関係である)。別の言い方をするなら、彼の理論は、個々の相互行為や組織や社会が存在する現実の布置を前提にしたうえで、それらの相互行為・組織・社会に、「システム」という名称を与えるところから出発しているのである(決して、別名をもたない新たな対象、つまり「システム」としか名づけられない未知の対象を発見しているわけではないことに留意せよ)。現実の記述ないしモデル化という観点からは、こういう命名は、とりあえず余計なことだということを確認しておきたい。具体的個物に命名したところで抽象化にはならないし、記述するだけなら元の名前で十分だからである。

重要なのは、この命名によって何が可能になっているかである。この問いに答えるためには、ルーマンの用いるシステム概念の内包的本質について、最小限の理解を必要とする。鍵となるのは、システムと環境との関係、そしてこの関係そのものと世界との関係である。

ルーマンによるシステム概念の定式化は、彼の学問的キャリアを通じて不断に発展を遂げてきた(7)が、その中核は変わっていない。この本質を、存在論という否定的契機と、超越論という肯定的契機に分析することができる。この二点に較べれば、システムの要素として行為ではなくコミュニケイションを採用したとか、システム再生産の機制を説明するのに自己参照的な論理を導入したとかいったことは、二次的な重要性しかもたないマイナーチェンジだといっても過言ではない。これらは、あたかもルーマンの理論的貢献の中心であるかのようにいわれることが多いが、実際にはこれから述べる彼のシステム概念の板本発想を伝えるための提示法における変化にすぎず、ただ理論の語り口を大きく変えてしまうために、分不相応に過大な注目を集めているだけである。

  • (7) たとえば長岡 (1997) が、その過程を詳細にた
    どっている。

まず反存在論というのは、特定の存在者の存立をもってシステム存立の定義特性とする発想(=存在論的システム表象)に反対する立場である。ルーマンはこの発想を相対化するために、一般に存在者を、複数の可能性の中から他を排除して実現した一つの可能性と捉える。こうすることで存在論的な発想を、他の可能性を排除することによってはじめて成立する単純化的思考法(複雑性の縮減)として貶価するのである。その上でルーマンは、非存在論的なシステム表象を提案する。つまり、実現した一つの可能性としての存在者だけでなく、実現しなかった他の可能性をも包摂するような形で、システムを概念化するのである。「複雑性」というのは、このような複数可能性の共在というシステムの性格を表す概念である。

複数可能性の共在というだけでは、具体的な対象をシステムとして概念化するには不十分である。なぜかというと、何の限定もない場合、複数可能性の共在というのは、すべての可能性の共在を意味しうるからである。すべての可能性の共在として概念化されるような対象は、定義上、(いかなる可能性も排除していないがゆえに)並び立つもののない唯一者である。これでは具体的対象を指すべきシステム概念の定式化としては不都合である。ルーマンは、この唯一者としてのすべての可能性の共在を「世界」と名づけている。

だからシステムという対象を、複数可能性の共在として概念化しつつ、その具体性を保持するためには、共在する可能性に限定がかかっていなければならない。つまりシステムというのは複数可能性の限定的共在として定義される必要がある。「システム/環境」理論という言い方は、まさにこのことを述べている。この定式は、単にシステムについて考える際には環境の与える影響も勘案しようといっているのではなく、そもそもシステム概念を、環境との区別によって定義しようという提案なのである。つまり、すべての可能性のうちで環境に含まれないもの、という形で、システムを構成する可能性に限定をかけているのである。

しかし環境とは何かというと、これまたシステムに含まれない可能性の総体としてしか定義できない。つまり以上の環境相対的なシステム定義は循環している。こういう循環的定義は、未知の現象の索出原理としては役に立たない。たとえば社会の中に、それまで知られていなかった「権力関係」を発見する際には、その語で何を意味するかが絶対的な形で定義されている必要がある。さもなければ何事も発見することはできないからである。しかし、だからといってこのシステム定義がまったく無意味であるというわけではない。先に指摘しておいたとおり、ルーマンのアプローチというのは既知の対象を「システム」と命名することから出発していた。つまり、彼は未知の対象を発見しようとしているのではないので、循環的定義だからといって無意味になるわけではない。

むしろこういう「システム/環境」的な定式は、既知の客体に対して、それが排除している可能性の領域(それが環境と呼ばれる)を示唆し、その排除によってこそ当の客体の同一性が成立しているという議論を可能にする。つぎり、システム(と命名される対象)の存立が、この排除という一つの操作にかかっていることを示唆するのである。換言すれば、「システム/環境」的な循環的定義は、システム存立の「可能性の条件」を索出することによって、所与の対象の同一性を問題化するのである。この発想は、先に触れた存在論的思考の相対化と同根であり、本稿ではこういう議論の形式を超越論的と呼ぶことにする(8)(9)

  • (8) ルーマン自身は「超越論的」という語の使用にきわめて慎重であるが、それはこの語が示唆する主観主義的・意識哲学的な含意(要するにフッサールを連想させること)を避けるためである。本稿の用語法にはこうした含意は存在しない。
  • (9) 議論形式としての反存在論と超越論は、ルーマン理論の特徴づけとしてはもちろん必然的に結合しているが、それ自体として両者がいかなる論理的関係にあるかについてはここでは未決としておかざるをえない。

こういう「システムが存立しているからには〜が前提となっているはずである」というシステムの可能性の条件を問う超越論的思考法は、逆に、システムの成立へと向かう「複雑性の縮減」の物語として提示することもできる。出発点、はすべての可能性の共在としての世界である。この世界に含まれる可能性に境界線が引かれて、二つの領域、システムと環境が成立する。システムと環境をともに術撒的に見る視点からは、もともとあった複数の可能性が二つに分けられただけなので、複雑性の縮減はまだ生じていないように思われるが、実は、別の可能な分け方が排除されているため、ここですでに複雑性は縮減されている。つぎにシステム内在的な視点からは、環境に割り当てられた諸可能性がシステムの外部として排除されているため、さらなる複雑性の縮減が起こっている。このように、世界から出発して二重の縮減過程(10)を経ることでシステムの成立にいたるという物語が、ルーマンのシステム理論である(11)

  • (10) もちろんこれは分析的にのみ有意味な言い方である。(システム/環境の区別という)一つの操作に二つの縮減が含まれているという事情による。
  • (11) これに対して、前段で論じた対象の相対化、問題化云々といったことは、理論そのものではなくて、理論の果たす機能である。

さて、以上のような特徴をもったルーマンのシステム定式は、パーソンズの場合のようなモデル主義と較べると、その妥当性検証という点において決定的な違いがある。この点、を理解するためには、可能性集合というものの捉え方に、実現態と可能態という区別を導入することが好都合である。以下説明しよう。

可能性の集合を考える。現実というのは、この可能性集合に含まれる一つの要素が排他的に実現したものである(12)。このとき可能性集合は、実現した一つの可能性と、実現しなかったその他の可能性から成り立っているといえる。実現した可能性のことを出来事と呼ぼう。経験科学の対象は、このような出来事の連鎖である。(たとえば因果関係というのは、ある出来事と別の出来事の間の関係に見出されるものである。)上述のとおり、体系的理論はこの出来事連関を抽象化して変数間関係を構築し、複数の代入値を許容するような一般性を求める。実現しなかった可能性のことを可能的出来事と呼ぶことにすると、抽象的な変数間関係は、可能的出来事間の関係についても述べているといえる。つまり経験科学は、現実の出来事連関から出発して、可能な出来事連関についても説明するのである。有限な観察から、無限の適用可能性をもった命題を抽出するといってもよい。このような経験科学の対象となる領域、つまり一つの出来事とその他の可能的出来事からなる可能性集合の集合(13)を、実現態(エネルゲイア)の領域と呼ぶことにしよう。

  • (12) もっと精鰍に理論を組み立てる際には、この要素自体を、複数の成分からなるヴェクトルとして考えるのが好都合であるが、ここでの議論ではそこまでする必要はない。
  • (13) 「可能性集合の集合」としてあるのは、実現態に含まれる可能性集合は、どの可能性が実現するか(どの要素が出来事となるか)によって異なるからである。

これに対して、どの要素もいまだ実現していないような可能性集合を考えることもできる。このような可能性集合の集合を、可能態(デュナミス)の領域と呼ぶことにしよう。可能態領域に属する可能性集合の中で最も包括的なのが、ルーマンのいう「世界」である。さて、システムとか環境というのも、世界の中に境界が引かれただけで、何らかの可能性が実現することを合意しないので、可能態領域に属する可能性集合だと考えることができる。 重要なのは、この領域に関する議論は、出来事の観察や説明を課題とする経験科学の管轄外だということである。世界に境界が引かれてシステムと環境が分化するという過程、またシステムがこの境界を維持することによって自らの同一性を再生産するといったことは、何らかの可能性が実現するという意味での出来事ではない。そんなことは実際には生じていないのである。このことは、ルーマンのいうシステム理論が、経験科学ではないということを含意する。

もちろん、システム理論が経験科学の対象と無関係だというわけではない。たとえばルーマンは、社会的システムが再生産されるということは、すなわちコミュニケイションが継続することだと考えている。コミュニケイションというのは経験的に生じる出来事である。簡単に説明すると、互いに相手の出方に応じて自分の行為を決めようとしている二人の個人がいて、一方の発話行為に対して他方がそれを前提とした発話行為を返す場合、コミュニケイションが成立するという。このようなやり取りが継続する過程を記述するのに、システムへの参照は不要である(14)。むしろルーマンの発想というのは、コミュニケイションの継続という実現態領域での過程を記述することが、すなわち社会的システムの再生産という可能態領域での過程を記述することだといえるような理路を、システム理論に要請しているというべきである。つまり出来事間の関係を扱う経験科学にとってシステム理論は不要であるが、システム理論が純然たる思弁に堕さないためには経験科学への参照が不可欠なのである。

  • (14) 佐藤 (2000:44) もこの点に気づいている。「行
    為・コミュニケーションの産出は autopoietic だが、それは『コミュニケーションがある』ということにつきている。『システムである』とつけくわえる必然性はない。

さて、経験科学の常套的手法であるモデル主義的理論構成の場合、現実との対応を妥当性判定の基準とし、現実との対照によって理論を検証し、修正していくことが可能であった。ところが可能態領域を対象領域とする超越論的なシステム理論の場合、こうした形での妥当性検証が原理的に不可能である。システム理論は、世界に境界が引かれることでシステムが成立するという過程が、実際に起こったとは主張していないからである。我々は、ルーマンのシステム理論を、それが現実をよりよく捉えているとか、よりよく説明してくれる、という理由で受容することが決してできないのである。

ではこの理論の妥当性は、何を基準として測ればよいのだろうか。いま確認したように、現実との対応という認識論的基準は採用できない。一般に、妥当性というのは何らかの動機、目的、意図に相対的なものだと考えられる。科学的理論の場合には、認識論的な動機が自明視されているわけだが、それが採用できない以上、理論構築の実践的な動機を基準とし、そこから妥当性を測るしかない。だからまず、ルーマンのシステム理論がどのような実践的動機に基づいて構築されているかを解明する必要がある。ルーマン理論の妥当性は(したがってルーマン命題の妥当性は)、そうした動機に照らして理論構成が整合的であるか否か(成功しているか否か)によって測られなければならない。

以上のような発想に基づいた、ルーマンの動機研究というのは全然進んでいない(15)。本稿としても、この点について決定的な結論を得たとはいいがたい。それゆえ本稿の残りの部分は、多分に試論的な議論となっているが、少なくとも今後の研究の方向性は得られるものと信じている。

  • (15) この背景にはおそらく、Haberrnas (1971) による極端な決め付けに対する、やはり極端な拒絶反応が存在する。