いやだから「普遍理論なら自己参照理論」は一般には成り立たないんだって

id:contractio:20090724#p2

ところで、ときどき、「普遍理論」のメルクマールが自己言及性にある、と理解しているひとがいるが、それは勘違い。(普遍理論ならば自己言及的でなければおかしいが、自己言及的ならば普遍理論であるとは限らない。)

これについては前に論じた。
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070604/p2
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070607/p1
そもそも、「対象領域」というのが、その理論の対象領域ということであれば、「対象領域すべてをカバーしうる」能力を備えていない理論なんて存在しない。その理論がカバーしているからそれが「対象領域」なんだから。この辺は、ルーマンの議論、言葉遣いが粗すぎてしょうがないわけではある。
対象領域すべてを理論がカバーできない可能性が成立するのは、理論構築に先行して、対象領域が定義されている場合だけである。たとえば、ある学問分野の対象領域、という形で。
社会学の対象領域とはこれこれである――たとえば「社会的」と形容される現象すべてである――という定義が与えられていれば、その領域すべてをカバーする普遍的な社会学理論と、領域すべてをカバーするには至らない、普遍的でない社会学理論を区別することができる。その際たいせつなのは、「社会的」ということの定義は、いかなる理論構築にも先行してなされていなければならないということだ。
さて、そのうえで、社会学の普遍理論は社会学の自己参照理論でなければならない、といえるためには、社会学理論とは何かということが――社会学理論は「社会的」現象であるということが――理論構築に先行して分かっていなければならない。したがって、ルーマンの理論は、〜とは何か、ということを理論の内部では規定できない――外部の規定に依存しなければならない――ということでもある。
さらにいうと、ルーマンにとって普遍性と自己参照性のどちらが大切かといえば、行論を見るかぎり、明らかに後者である。どっかで自分の理論から漏れる対象があっても、だからといって何か困るわけではない。しかし、理論自身を対象とする理論を構築するという目標は、ルーマンにとっては絶対に譲れないポイントである。なぜかというと、それによる社会学の自己制御こそが彼の理論構築の目指すところだから。