ネットにおける匿名性と抽象性

昨日の演習の内容をなんとなく反芻していたら、なんとなく分かった気がするので、言葉にしてみよう。
報告者の洞察は、2ちゃんねる(をはじめとするネット掲示板)を相互承認の癒し空間として、不安の解消手段とみなすものだった(単なる攻撃性の昇華ではないという点が慧眼。攻撃性は、特定の板における特殊要件にすぎないという帰結が導かれる)。
さて、ネット空間の匿名性はよく議論のテーマになっている。昨日も、出席者から匿名性という言葉が出た(ような気がする)。ただ、ネット掲示板の特徴は、匿名性というよりは、高度の抽象性だと思う。高度に抽象的であれば、匿名的である。つまり、論理的には、匿名性は高度抽象性の必要条件である。ということは、ネット掲示板を匿名性で特徴づける議論は、高度抽象性のもつ多くの側面を見落としていることになる。
匿名性だけで議論していると、同様に相互承認を得られる場である2ちゃんねるmixiが区別できない。これは私の主観的印象かもしれないが、2ちゃんの相互承認はなんとなく「さっぱりしている」のに対して、mixiの相互承認は「気持ち悪い」。私や私のマイミクは、結構実名でやっているのだが(そしてこの比較的年長者のmixiコミュニケイションは、健全に殺伐としていて、それほど気持ち悪くない(笑))、もちろん、ユーザの大半は匿名であり、その点では2ちゃんと変わらない。ではこの違いはどこから来るのか。
一言でいうと、2ちゃんでは、余分な情報がくっついてこないということ。そのために、それ自体は馴れ合い的相互承認なのだが、承認の対象がきわめて明確である(短文の「レス」が対象)。要するに、高度に抽象的なコミュニケイションだといえる。しかも、その板、あるいはそのスレで、どんなレスが承認の対象になるか(肯定的に評価されるか)は、書き手・読み手にほぼ共有されている。また、違背的なレスが登場した場合でも「工作員乙」などの違背処理プログラムが備わっている。
これに対して、mixiは仮に実名を晒していなくても、日記なので、そこに一つの人格ができる。コメント欄が気持ち悪いmixi日記は、日記の主の意見などに対して、全面的に肯定したものばかりが並ぶわけだが、そうすると、そこに、一つの人格としての日記主と、一つの人格としてのコメント者の間に、相対的に安定した社会的関係が成立しているように見える。2ちゃんのレス間コミュニケイションとは異なり、人格間コミュニケイションであるがゆえに、そこでの相互承認は、人格間の全面的相互承認になって、そんな社会的関係は通常は成立しないので、そこが気持ち悪く見えるのだろう。以上の議論において、匿名性は何の役割も果たしていない。具体的である(がゆえに不特定である)か、抽象的である(がゆえに特定的である)か、だけが両者の違いを規定しているわけだ。
書いてみたら、たいして珍しくない意見に思えてきたが、まあ、演習の延長、教育の一環だとか言っておけば許してもらえるかも(←誰に? もちろん、無条件の承認を与えてくれないあの人たちに、です(笑)。)。