人文総合演習A 第3回



まずは、報告者・司会者の二人は、互いの名前もまだ把握しきれていない、どうも感じがわからない中でのトップバッター、お疲れ様でした。終わったあとで司会者が「悔しいです」とこぼしていましたが、その感想が出ることこそ、演習の醍醐味でしょう。一般に、報告者よりも司会者の方が大変だし、感じる責任も大きいものです。

まあ、ついでなんで、この二人には人柱になってもらって(笑)、次回以降に改善すべき点をいくつか指摘しておきましょう。



まず報告者。レジュメの文章は大変よくできている。著者の主張を正しく、また要点をよくつかんでいるし、著者の仕事によって開かれた、しかし著者が踏み込んでいない領域で、独自の議論を展開することができている。またそのおかげで、演習の場でも、新しい課題が開かれた瞬間があった。まあ、1年生だということを忘れて注文をつけるなら、自分のレジュメの内容を反省的に振り返って(←冗長表現だな)、そのレジュメによって何を達成したのか、どういう課題が開かれ、その課題をどのくらい達成できたのか、足りないことは何か、といったことが、レジュメの中に書かれていれば、なおよかった。

他方で、そのレジュメの水準に、口頭でのパフォーマンスがついていっていない。つまり、口よりも手が賢すぎる。ただ、これはまあ、自分のことを省みてもよくあることで、文章が洗練されすぎると、自分でも何が言いたいのかわからなくなるリスクは高まる。これについては、やはり場数を踏んで、経験を積んでいくしかない。形式的な処方箋としては、上述のとおり、「言いたいこと」を書くだけでなく、「何が言いたかったのか」(反省的要約)も書くというやり方がある。それで、自分の書いたことの価値に気づくということが、結構あるわけだ。さらにいえば、論文というのは、(1)価値あることが書かれている、だけでなく、(2)それがどういう価値なのかも書かれている、という二段構成になっていなければならない。それによって、書き手・読み手(聴き手)の理解は格段に高まる。

それと、まあ自分がしゃべりすぎ。もっと質問者に(互いに)しゃべらせるべき。報告者がしゃべりすぎると、場が、〈報告者−質問者〉の二人関係の集まりにすぎなくなってしまう。報告者はレジュメ作成と口頭報告で、ほとんどの仕事が終わっているのであって、あとは質問に簡潔に答えつつ、他の人同士が議論して、自分の思いもよらないような展開になっていくのを楽しめばいい。



次に司会者。事前によく準備して、展開を計画しているのはよく分かる。ただ、司会者には、(1)事前によく準備して、展開を計画しておく、ことはもちろん必要だが、それに加えて、(2)準備したり計画したりしている素振りを見せない、という技術も必要。司会者の計画が優先されると、他の出席者たちは置いていかれた感を持ってしまう。当日、出席者に何を持って帰ってもらうのか、についてのある程度のイメージは必要だが、議論が紛糾してわけわからなくなっても、たいていの人は、それぞれの状況に応じて、何かは持って帰ってくれる。まとめきれないな、と思ったら、もうみんなにゆだねちゃう、という手もある。

もう一つ、司会者から出席者に質問を振る場合は、ある程度回答を予測しておき、回答に基づいた次の展開を準備しておく。回答に対して質問を重ねて、その人からさらなる議題を引き出すというのも吉。

議論を「切る」必要が出てくることはある。ただその際には、できるだけ刀が見えないようにしないといけない(今日は激しく白刃が踊っていた気が・・・)。たとえば、「〜さんがさっき指摘された○○ですけど、これは報告者のここの部分と対立するような気がするんですが」とか言って、(1)議題を新たに立てるとともに、(2)その議題に、あらかじめ少なくとも一人は巻き込んでおく、といったやり方。



さて、いずれにしても、私の要求水準はきわめて高い。上に書いたことのすべてが、お前にはできるのかと言われたら、自信いっぱいにうなづくことはできないだろう。でも、そういったことが必要だということはわかる。受講生に対しても、最初から全部できるとは思っていない。ただ、やってみなければ「できなかった」という体験は得られないし、その体験なしに課題解決的な工夫は不可能だ。今日の二人は、自分の体験に基づいて、今後の報告者・司会者に対して、私が上に書いたような評価的観点に立つことができるだろう。それが、実際にやってみるということの何物にも替え難い価値だと思う。



ちょっと長くなりすぎたので、報告者のレジュメの内容について少しだけ。

報告者が、著者に対して向けている批判は大きくわけて3点。(1)書名も含め「ナショナリズム」という用語が不適な件、(2)「不安」と「右傾化」の(論理的・理論的)関係が不明な件、(3)いま「ナショナリズム問題」とされていることが「疑似問題」だとしても、歴史問題それ自体の内在的解決が不要であるとまでは言えない件。

(1)に関しては、このゼミ用にいただいた著者からのメッセージにも明記されているように、著者自身が、議論の対象にしている現象を「ナショナリズム」と呼ぶべきでないと考えているわけで、なら「(個別)不安型ナショナリズム」とかややこしい名前つけてんじゃねえ!というツッコミは、うん、妥当でしょう。本来のナショナリズムというのはこういうもんで、という議論は書かれてはあるけれど、にもかかわらず「疑似」であるはずの右傾化を「ナショナリズム」と呼んでいたんではわけわからなくなる、というのは確かだと思います。

(2)の指摘は、今回のレジュメの最も優れた洞察です。つまり、現在の「右傾化」の背後に「不安」があるという著者の主張が正しいとしても、それは論理的には「右傾化しているやつはみんな不安だ」ということしか言っておらず、「不安なやつはみんな右傾化している」とは言えていない。だとすると、「不安」を右傾化以外の方法で解消している人がいる可能性がある。

そこで、報告者は不安の解消についてのメカニズムについて一定の仮説を立てます。一言でいうと、それは「馴れ合い的相互承認」とでもいうべきものです(この言葉自体は三谷がいま考えただけ)。つまり、掲示板でのレスに肯定的レスがつくことによる充足感による不安解消というメカニズムです。この仮説でいくと、不安解消のネタは、嫌韓・嫌中である必要はなく、実際、他のもっと穏当なネタで相互に承認を与えあって不安を解消している人たちが大量にいるだろうと。レジュメから引用すると「それらに限らず流行しているものなら全て「不安」に結びつけてしまえるのではないだろうか。/筆者の主張は、こうした「不安」の解消を目的とした大きな流れの中から一筋のみについてしか考えていない。」

そして、これは報告者が明示していることではなくて、議論の中で一瞬垣間見えたかな、と思った議論領域なのですが、前段の指摘が正しいなら、著者が言っているような「不安」の原因を元から断つような根本的な解決策に先立って、より穏当な相互承認の場を設置してそこに「不安」を誘導するという方策も考えられることになります。まあそう簡単な問題ではないですが、一つの指摘が次の課題を生むという良い例だったかなと。

(3)については、報告者の議論自体が少し粗雑なのと、「〜が問題の本質だ」という議論は、論壇政治の中での立場取りに回収されてしまう傾向が強くあって、難しいとこだなあという感想でお茶を濁しておきましょう(笑)。



というわけで、今回は報告初回ということで、書きすぎてしまいました。次回から自重したいところ。あ、それから、今期の対象本は、日本社会論的なものが多いので、今回ではよく分からなかったところも、あとからわかるようになるかも、という気がしています。

以下、出席者のコメント。

  • 議論がどこに向かっているのかよく分からなかった。あと相変わらず部屋が寒い。
  • 本の内容があまり頭に入っていなくてあまり話にまざれなかった。
  • まだ議論の形というものをはっきりとつかめなくて、とまどいました。もっとしっかりと読みこんでおけばよかったかと思います。
  • 説明下手で本当にごめんなさい。今度はちゃんと意見をまとめて発言するようにします。考えていても、人にちゃんと伝えるというのは、本当に難しいなと思いました。
  • 全体的に何が前提か分からない。私が分からないだけらしいので問題はないと思う。議論に出したかったのは、「不安を持っているところへ、『韓・中は日本を嫌ってる』らしいと知り、すり変えて嫌韓・中になってる」ということ。現状以上に述べることはない。実際、不安から結びつくのは理由がないんじゃないかと思う。
  • 賢い意見を述べられるようになりたいです。反韓反中感情を持っていない人で、ついついネットで反韓・反中に同調しない人もいます。だから、ネットシーンは大きいようで実は小さいかもしれないと思う。
  • 報告者の感想 ぐだぐだでした。司会者と報告者は結構打ち合わせをした方がよいと思います。
  • 司会者の感想 議論の行方がわからず困りました。司会者ですが。