出席をとらない

「出席をとる」ことには、出席促進効果がある。(他の条件が等しければ)出席をとる授業の出席率は高く、出席をとらない授業の出席率は低くなる。これは与件である。
さて、教員としては、たくさん出席してくれればうれしい、なんてことは全くない。むしろ、出席者が少ない方がうれしい。毎回出席料でもくれるなら別だが、大学の授業では、本来少人数のゼミこそが教育の場であって、大人数授業というのは人員の(というかお金の)制約のもとで仕方なくやっているものだ。
ここからは意見が分かれるかもしれないが、少なくとも私は、出席をとるから出席するが、出席をとらないなら出席しない、そういう学生が出席することをうれしいとは思わない。多くの場合、そういう学生は、やる気のある周りの迷惑である。もちろん、やる気のある学生ばかりが出席している状態が一番望ましい。
というわけで、「出席をとる」ことで、本来出席しない学生が出席してしまうという害を防ぐために、私は出席はとらない。もちろん、単位というのはある割合の出席を前提に認定するものだという考え方はあるだろうが、それは役人的発想というものであって、とりわけ人文系では、そんな発想で教育ができるわけがない。
他方、出席している学生の方が、自分が出席していることをポジティヴに評価してもらいたくて、出席をとってほしいと求めることもある。私としては、出席しているだけで評価されようと思うその甘さを戒めることが教育だと思う。大切なのは達成であって努力ではない。勉強していれば、言うことを聞いていれば褒められる年齢ではないことに早く気付かないといけない。
また、これは授業の初回に言うことにしているのだが、大学というのは自分の能力を開発して成長するところである(というか、大学生というのはそういう時期だ)。そして多くの人にとって、授業に出ることは、さらには授業に積極的に参加することすら、成長するための最良の選択肢ではない。私としては各人の最良の選択の邪魔をしないように出席はとらないが、出席をとらなくても出席するやる気のある人たちにも、やる気を授業だけに限定させるなと言いたい。
さて前にも述べたように、いちばん避けたいのは、質の低いやっつけレポートが提出されることである。「出席をとらない」ことは、この事態を回避するための、ある程度合理的な選択肢になっている。理屈は簡単で、前述のとおり、出席をとるとやる気のない学生が出席する。そうやってある程度の回数出席すると、それまでにいやいや出席していた時間が「もったいない」ので、最後まで出席しようとする。あるいは、せめてレポートだけでも出そうとしてやっつけを書く。いずれも教員としては避けたい事態だ。だから、「出席をとらない」ことで、もったいない感なく早めに履修放棄してくれればいい。
もちろんこれは、他の教員がどういう出席ポリシーをとっているかによって変わってくる。一定数の出席を単位認定の必要条件にしている授業が多ければ、全般的に出席しない学生は、うちの授業だけが単位取得「可能」な授業だということでダメ元レポートを出してくるだろう。その辺は経験的研究によって捉える必要があるが、165人中67人が放棄というのは(「同じ人数が不可」と較べて)なかなかいい線いっているのではないかと思う。
最後に、大事なことを書き忘れていたので。「私語を注意する」もそうなのだが、「出席をとる」ことで、授業の空間の知的な雰囲気、知的な水準が著しく下がる。中学生かよ!ってことだ。やらされてる感の蔓延する空間ってことだ。「私語」に関しては、この知的水準下落効果それ自体を授業の中で話して理解してもらった(実際、そのように感じていたとレスポンスをくれた学生もいた)。そういう、自分たちで自分たちの所属する空間の価値を高めるんだという自覚が重要だということが、学生に通じたことはなかなかうれしかった。出席に対する自己選択感は、そういう自覚のために必要な条件ではないかとも思う。