古田博司『新しい神の国』

新しい神の国 (ちくま新書)

新しい神の国 (ちくま新書)

本来は「別亜」だというのが本当だとしても、現在の国際情勢の中で「別亜」を貫けるのかという問題はあって、できないのであればフィクションでもアジア共同を奉じなければならないかもしれない。いずれにしても、各国の文化的同一性の内的統合、外的差異がどのくらい確固としてあり、どのくらい頑固なのかは、もっと見ていかないとわからない。
文章はとてもうまく、他の本も読んでみたいと思わせるが、ところどころ変なところもあるので、以下どうでもいいツッコミ。

私の研究室ではこれまでに多くのオタクを更生させ、社会の維持にとって必要な実務家を輩出してきた。十年くらい前には放送局員や新聞記者なども輩出したが、だいたい夜明けに鶏が三度鳴く前に「古田なんか知らない」と言いそうな輩ばかりなので、ばかばかしくなって止めてしまった。(p. 48)

そこは、鶏が鳴く前に三度「知らない」と言う、じゃ? 「鶏が三度鳴く前」ってタイミング難しそう。
あと、「茶化す」をティーゼイションというなんちゃって英語にするのはいいとしても、動詞形をティーゼイト、それをする人をティーゼイターはいかがなものか。オーガニゼイションの動詞形はオーガナイズ、それをする人はオーガナイザーであって、オーガニゼイトととかオーガニゼイターとはいわないのだから、ティーアイズ、ティーアイザーというべきでは?

そういうときには、「必殺仕置人中村主水の名前は、なぜ主水でモンドと読むのか、Gugutteみろ」ということにしている。彼ら彼女らはすぐさまパソコンに向かい作業を開始するのだが、こういう高度な問題はまず解けないのである。正解は、古代に日本語では器に盛った水を「もひ」と言っていた。この「もひ」を貴人に差し上げる、水を主る人を「もひとり」といったのである。この「もひとり」が後世訛り、「もんど」となり、主水の訓となった(p. 139)

Yahoo知恵袋が見つかり、著者が挙げている程度のことはわかるのですが。語源系はネット検索の一番得意とするところという印象あり。