大澤真幸(編)『アキハバラ発〈00年代〉への問い』

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

事件の1週間後、非常勤「社会学」の授業でこの事件を取り上げ、その語られ方を、犯人の経歴、無差別殺人を含む凶悪犯罪の統計データなどとりあえず手に入る関連データをもとに、批判的に論じた。本書には、そのときに主にネットでささっと調べた以上の情報がまったく含まれていない。ネットで犯人に対する共感が蔓延しているみたいな嘘八百を除いて、社会の側からの反応についての情報も含まれていない。少数の例外を除いて、論者の根拠薄弱な思いつきを読まされるばかりで辟易する。その少数の例外にしても、とにかく追加的な議論を組み立てるだけの情報がないのだから別にいま書かないといけない文章とも思えない。結局全般的に、この業界も大変ですね、という感じ。東浩紀のインタヴューにはその大変さがにじみ出ていてある意味面白かったが。
さて今回の事件について私個人が当時も現在も変わらず知りたい最大のことは、やはり「究改」ってなにそれうまいの?ってことであって、私は携帯電話持っていないので2ちゃんねるほどには直観的理解が届かないのだが、本書には濱野智史「なぜKは「2ちゃんねる」ではなく「Mega-View」に書き込んだのか?」という文章が載っていて、おっ、これはと思ったのだが、なんか最初の方で、著者もまた事件後初めて知ったとか書いてあってがっくり。そのあと調べたのかと思ったら、仕組みをちょっと調べただけで、ユーザーの実際の利用法がどんな感じなのか(たとえば犯人のように日記代わりに使うのは例外なのか普通なのかとか)は全然わかっていない。
というか多くは2ちゃんねるの話で、それについても緩い議論だと思う。リンクは「覗き見」で、ime.nuを介することと匿名掲示板であることから、2ちゃんねるはその性質を強化したものだというのが著者の議論だが、第一に、「覗き見」というなら、それは2ちゃんねらよりもむしろ、端末のブラウザで見ている(ROMっている)圧倒的多数の人がしていることだろう。第二に、著者が「覗き見」られているとするのはウェブのコンテンツなのだが、それはあらかじめ世界中の不特定多数に見られてもいいように公開したものであって、そういうのを「覗き見」るとは言わないだろう。そういう意味ではテレビ見ているのと同じ構造であってなにか新しいものがあるわけではない(見られていることに無自覚な人がたくさんブログとかやるようになった、という面はあるだろうけど。これは見る側の新しさじゃないわけで)。
(ところでアクセス解析をしない限りリンク元はわからないとか言っているけど、アクセス解析ってそんな特別なことではないからすりゃあいいじゃんと思うし、ime.nuとかあったって2ちゃんに晒されたらすぐわかるけどなあ。)
本書全体についていうと、いま出す必然性が、次の一点を除いて全然ない本だということになると思う。一点というのはつまり、いま出す必然性がないくらい、この事件についての議論が盛り上がっていないということだ(この点については、執筆者の何人かが明示しているし、それを問題視している)。無理にでも盛り上げようという気持ちはわかるが、それには何か新ネタを用意してほしかったというのが正直なところ。