土井隆義『友だち地獄――「空気を読む」世代のサバイバル』

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

期待しただけにがっかり(かなり遠くの本屋まで歩いて買いに行ったのに!)。少なくとも社会学の「成果」ではない。せいぜい仮説、あるいは分析枠組みの呈示。

本書で述べてきた若者のメンタリティの半分は、自分にも当てはまることを率直に認めておかなければならない。すでに若者としては薹が立っており、彼らとメンタリティを共有しているなどと表だっては気恥ずかしくて言えないが、本書のような若者論が私に書けたのは、この歳になってもいまだに成熟したという実感をもてないまま、なかば自分自身について考えたものだからである。その意味で、本書は、最近の若者風俗を取り入れてはいるが、半分は自分語りの書でもある。(p. 231)

実際そういう感じを強く受けた。(「若者としては薹が立っており」というが、著者は50歳近いのだが・・・このセリフは頑張って私くらいまで=30代前半では?)現実の若者について論じているというよりは、著者の(年代の)若者理解を吐露しているという感じ。
考察もなんか弱い。

極端な例ではあるが、学校の廊下を走っている生徒に教師が注意をすると、「いけない理由は何ですか、こんなに広くて気持ちのよい場所なのに」と、まったくもって率直な反応が返ってくることが近年は増えているという(『毎日新聞』朝刊、2000年5月22日)。たとえば「どうしようもない緊急の用事があったから」などと、かつての生徒たちのように一応もっともらしい理由をかりそめにでも考えて釈明しなければならないとは端から感じていないようである。それは、自分の行動に言葉で根拠を与えることに対して、かつてほどの信頼を置いていないからだろう。言葉で表現することは、自分の純粋な気持ちに対して、あたかも偽りの行為であるかのように感じてしまうからだろう。(p. 115)

どうしてそんな解釈が出てくるのか全然わからない。だって、ちゃんと「いけない理由は何ですか」と、言葉による説明を、言葉で質問しているじゃないか。学校や教師の権威を感じつつ、根拠の不明な禁止事項に従うような振る舞いこそ、言葉に対する信頼を欠いた感覚的なものだというべきだろう。

このように、現代の若者たちは、自らのふるまいや態度に対して、言葉で根拠を与えることにさしたる意義を見出しにくくなっている。言葉以前の内発的な衝動や生理的な感覚こそが純粋な自分の根源であると感じ、言葉によって作り上げられた観念や信念に根ざすものとは考えにくくなっている。自らの身体的な感覚を重視し、心や感情の動きといったものも、それと同様のものとして捉える傾向を強めている。
(中略)
こうしてみると、第一章で触れた「むかつく」という表現も、じつは彼らの判断基準の身体感覚化を物語っていたことに気づく。たとえば、胃に「むかつき」を覚えるのは生理的な現象であって、社会的あるいは心理的な現象ではない。自分の意思でもコントロールできないような、内部からふつふつと湧き上がってくる抑えがたい感覚である。(p. 116)

著者は、二つの点を見失っていると思う。一つは、「むかつく」だって言葉だということ。もう一つは、ほとんどの若者はめったに胃がむかついたりはしないということである。著者が「むかつく」に読み込んでいる身体感覚は若者の身体感覚ではないのであって、いわばおっさんの発想なのだ。(もちろん、「むかつく」の流通が、若者の内臓疾患の増大を示しているというのなら、それはすごい発見だが。)
第一章での「むかつく」論というのは次のようなものだ。

「むかつく」とは、たとえば「胃がむかつく」と表現するように、そもそも自分自身の生理的な反応をさす言葉であり、必ずしも他人の存在を前提としない。その意味で「むかつく」は、「腹がたつ」とか「頭にくる」などとは違って、「〜に対して」という対象を必ずしも前提としない自己完結した言葉である。(p. 44)

これも、著者の言語的直観が全然把握できない。「腹がたつ」とか「頭にくる」だって「自分自身の生理的な反応をさす言葉」ではないのか。「腹がたつ」にしても、「なんかわからんけど腹立つわー」みたいに明確な相手を欠いた用法がちゃんとあるし、「あいつむかつくわー」みたいに明確な対象をもった「むかつく」の用法だってあるじゃないか。
さて副題になっている「空気を読む」だが、「優しい関係」と絡めて論じられている。「優しい関係」とは、

対立の回避を最優先にする若者たちの人間関係(p. 8)

である。これ自体はまことに結構なことだし、我々の通常の人間関係においては普通のことだ(一部「熱血青春」系の人を除いて。また学問的な議論の場など、「優しい関係」が支障をきたす場合があることはもちろんとして)。ところが著者はこの「優しい関係」が、「現在の人間関係」の「絶対視」を導くという。ここの理屈がよくわからない。

「優しい関係」を取り結ぶ人びとは、自分の身近にいる他人の言動に対して、つねに敏感でなければならない。そのため「優しい関係」は、親密な人間関係が成立する範囲を狭め、他の人間関係への乗り換えも困難にさせる。互いに感覚を研ぎ澄ませ、つねに神経を張りつめておかなければ維持されえない緊張に満ちた関係の下では、対人エネルギーのほとんどを身近な関係だけで使い果たしてしまうからである。その関係の維持だけで疲れきってしまい、外部の関係にまで気を回す余力など残っていないからである。
こうして「優しい関係」は、風通しの悪くなった狭い世界のなかで煮詰まっていきやすい。そのような関係の下で、互いの対立点がひとたび表沙汰になってしまうと、それは取り返しのつかない決定的なダメージであるかのように感じられる。「今、このグループでうまくいかないと、自分はもう終わりだ」と思ってしまう。現在の人間関係だけを絶対視してしまい、他の人間関係のあり方と比較して相対化することができないからである。(p. 17)

何回読んでも、気疲れする→現在の人間関係の絶対視、のつながりが不明だ。なんかが抜けているんだろう。まあいいか(よくないけど)。
さて、「空気を読む」というのは、この場合は要するに「対立の回避を最優先」という規範に抵触しないようにするということだし、一般に、明示されていない規範への抵触を回避するということであって、それ自体は当たり前のことで昔からある。近年顕著なのは、空気が読めていない人に対して、「空気が読めていない」、「空気読めよ」と、そのまま指摘するようになったことだ。著者はこのことをある種窮屈なこととしてネガティヴに評価している(だってタイトルが「友だち地獄」!)ようだが、私はそれには反対だ。
だって以前は、空気が読めていない人は、「嫌な奴」とか「性格の悪い奴」というように、生まれつきの(かどうかはともかく簡単には変えられない)性質に還元されて(多くは陰口として)ラベルを貼られ、排斥されていたわけだが、「空気読め」というのは、修行次第では改善可能な能力の欠如として指摘する言葉なのだから。そもそもこの言葉の現在の流行はテレビで芸人が使いだしてからだと思うのだが、これは有能者から無能者への指導としての側面もさることながら、空気を乱す奴を、異端者ではなくて未熟者として位置付けることによって、排斥を防ぎ包摂を維持する(テレビの場合は笑いに変える)技術なわけだ。
もちろんそのような技術が要請されること自体が「優しい関係」規範の効果なのだと思うが、上述の通り、それ自体はいいことだ。問題は、本書で紹介されているような問題(いじめや自殺)が本当に「優しい関係」と関わっているのだとしたら、問題の所在はどこかという点だが、これについてはとりあえず直観的な仮説として、「優しい関係」の外部に、そうではない、心からの交流が存在し、それにアクセスすることが普通だし理想だという嘘を垂れ流している人たちがいることこそが問題だ、と言っておきたい。