ラドクリフブラウン「タブー」

  • A. R. Radcliffe-Brown, 1939, "Taboo," The Frazer Lecture, reprinted in: A. R. Radcliffe-Brown, 1952, Structure and Function in Primitive Society, Cohen & West, pp. 133-152

 ポリネシアの事例と本質的な部分で似通っている慣習が世界中にあり、それを人類学ではtabooという言葉で呼んでいるが、これは望ましくないし、使い勝手もよくないと思う。さっきもいったように、ポリネシアの言語でtabuというのはもっと広い意味を持つ言葉であって、我々でいうと「禁止(forbidden)」にあたる。一つの言葉に二つの意味があるため、ポリネシア関係の文献ではこの両義性のゆえに少なからぬ混乱が発生した。もうお気づきかと思うが、ここまで私は、(英語の綴りと発音による)tabooは人類学者が使う意味で、(ポリネシアの綴りと発音による)tabuはポリネシアに特化して、ポリネシアで使われる意味で使ってきた。とはいえそれだけではまったく不十分である。
 私としては、この慣習のことを「儀礼的回避」または「儀礼的禁止」という言葉で呼び、これを、私がいままで習慣的に使ってきた「儀礼的地位」と「儀礼的価値」という二つの基本概念で定義することにしたい。これが最善の用語選択であるとはいわない。とりあえず思いついたものでこれが最善だったというだけである。人類学のような学問では用語というのは分析の道具であって、道具というのは機会があれば拠りよいものに換えていかなければならないということである。
 儀礼的回避とは一つの行動規則であり、この規則を守らなかった人はその儀礼的地位が望ましくない方向に変化すると信じられている。儀礼的地位がどういう変化を蒙ると考えられているかは、社会によってそれぞれ異なる。ただ当人の身に大小問わず何らかの災厄が訪れるという点では共通している。
(pp. 134-135)

 人、物、場所、言葉や名前、機会や出来事、曜日や時期、何であれ儀礼的回避、あるいはタブーの対象となるものは、儀礼的価値を持つということができる。ポリネシアでは首長や死体や新生児が儀礼的価値を持つ。イングランドのある地方では塩が儀礼的価値を持つ。キリスト教徒にとっては日曜日や聖金曜日が、ユダヤ人にとっては土曜日や贖罪日が儀礼的価値を持つ。儀礼的価値はその対象や機会に向けられる行動に現れる。儀礼的価値を示すのは否定的な儀礼だけでなく、肯定的儀礼にもそれは現れる。肯定的儀礼が向けられる対象にも、その儀礼で使われる物や言葉や場所にも、儀礼的価値は現れる。様々な聖別の儀礼においては、そこで用いられる客体に儀礼的価値が与えられなければならないのだ。一般に、肯定的な儀礼で価値を持つものは、儀礼的回避の対象となるか、少なくとも儀礼的畏敬の対象となるということがいえる。
 ここで「価値」と呼んでいるのは、つねにある主体とある客体の間の関係のことである。この関係は、その客体がその主体に対して価値を持つということもできるし、また主体が客体に関心を持つということもできる。このように、ある客体に対する何らかの行動のことを価値とか感心と呼ぶことができる。この関係は、当該の行動において示され、またその行動によって定義されるのである。「関心」とか「価値」という言葉は、ある種の行動と、その行動において示される主体と客体の間の関係から構成される現実を記述するための便利な省略語である。ジャックがジルを愛しているとしよう。このときジルはジャックに対して愛の対象としての価値を持ち、ジャックはジルに明確な関心を持つ。空腹のとき、私は食物に関心を持ち、おいしい食事は、そのとき限りの価値を私に対して持つ。歯痛は私にとって、できるだけ早く取り除きたいという関心の対象としての価値を持つ。
 社会的システムは複数の価値からなるシステムだと考えることができる。そういうものとして研究対象にすることができる。社会は多数の個人が社会的関係のネットワークの中で互いに結びついてできている。複数の人間がいて、それぞれの関心がある程度一致し、関心が背反する部分には限定や調整が働くことによって、個人間で関心が調和している場合、そこに社会的関係が存在する。関心というのはつねにある個人の関心であるが、二人の個人が同じような関心を持つことはありうる。同じような関心を持つからといって、それだけで社会的関係ができるわけではない。犬が二匹いて同じ骨に対して同様の関心を持っている場合、喧嘩が始まってしまう可能性もあるからだ。とはいえ、成員間である程度関心が同様でないと、社会は存在しえない。同じことを価値という言葉で言い換えると、社会が存在するための第一の必要条件は、個人成員が価値をある程度共有していることだといえる。
 どの社会も、道徳的、美学的、経済的、等々の価値の集合によって同定することができる。単純な社会では、成員間にかなりの程度の価値合意が、もちろん絶対ではないが存在する。複雑な近代社会の場合、社会全体を見ればはるかに大きな不合意が存在するが、社会の中に存在する集団や階級の内部では、成員間でかなりの程度の合意が見られる可能性がある。
 ある程度の価値合意、ある程度の関心の一致は、社会的システムが存在するための必要条件ではあるが、社会的関係が成立するためにはそれだけでは足りない。つまり、共通の関心とか社会的価値といったものが必要である。複数の人間が同一の対象に対して共通の関心を持ち、それが共通の関心であるということを自覚している場合、そこに社会的関係ができる。一時的なものか長期的なものかはともかく、そこに一つの連合が成立し、当該の対象は社会的価値を持つようになるといえる。夫婦にとって、子供の誕生、子供それ自体、また子供の健康や幸福、子供の死といったことは、夫婦の絆となる共通の関心の対象であり、夫婦という二人の人間の形成する連合にとって、それらは社会的な価値を持つのである。この定義でいくと、ある対象が持つ社会的価値というのは、複数の個人が形成する連合にとっての価値であるということになる。最も単純な事例としては、次のような三項関係が考えられる。主体1と主体2がいて、同じような関心を客体に対して持っている。また主体同士が互いに対して、あるいは少なくとも、相手が示す一定の行動、つまり客体に対する行動に、関心を持っている。こういう関係である。文章がややこしくなるといけないので、対象は[本当は社会的関係にとって価値を持つのだが]この関係に含まれる各主体に対して社会的価値を持つという言い方をすることにする。が、これは言葉遣いとしてはいい加減なものだということは念頭においておいてほしい。
(p. 139-141)