ウォード「社会学の成立」(1906)

米国社会学会第1回大会の会長講演(1906年12月27日)。米国社会学会のサイトから。ASA初代会長Lester Frank Wardについてはこちら

 今日この機会に、社会学は科学なんだということを殊更に主張しようという気はございません。ただその歴史、成立にいたる諸段階を見ますと、他の科学と本質的に違うということはないんだということを示したいと思うところです。
 今日と同じような機会が以前にもございまして、そこでも同じような話をいたしましたのですが、そのときは外国語でしゃべりまして、それがまだ英語にはなっておりませんので、今日の講演の導入部としては、そのときしゃべったことを少しご紹介するのが適当だろうと思います。そのとき私は次のように申しました。

 国際社会学機構の会員の皆さんですから、社会学という科学が存在するということに疑問をもたれる方はいらっしゃらないかと存じますが、社会学という科学とその他の科学の間には違いがあるんだというふうにお考えの方はいらっしゃるかと存じます。社会学以外の科学につきましては、その基礎が何であるかということについて、それぞれの分野の科学者の中で合意ができておりますが、社会学の基礎が何であるかということについてはまだ議論の途中であり、社会学者ごとに意見が違っております。こういう事情から、社会学というのは他の科学とは違った科学なんだというお考えが出てくるようです。ところが、これは他の科学の歴史を研究してみればわかることですが、そういう考えというのは間違っております。科学史の研究に深入りすることは避けますが、現在最も完成されている科学について、その歴史上の一時代の状況を考えてみれば私の申し上げることは十分ご理解いただけるものと思います。皆さんご存知のとおり、天文学というのは現在のところ最も正確で最も完成した科学でございます。ではたとえば、17世紀の天文学というのはどんなのだったでしょうか。デカルトは古代の諸理論に通じておりまして、プトレマイオスの理論も知っておりましたが、コペルニクスの理論も、チコ・ブラーエによるその修正版も知っておりました。さて近代天文学というのは主にコペルニクス理論に基づいておりまして、天文学の正確さは、惑星の公転について彼が定式化した法則に完全に依拠しております。しかしではその当時、天文学という科学が成立していたというふうにいえるでしょうか。もちろんいえません。17世紀最大の天才は、この知識をすべてもっていながらなお正しい原理を拒絶し、それ以前のものとはまったく異なる新しい仮説を作り上げてしまったのです。この仮説は重厚複雑で、近代世界においてはほとんど忘れ去られてしまっております。つまり、17世紀の天文学は、今日の社会学と同じような状況にあったわけです。
 同じことが、重力の法則が発見される前の物理学についても、また燃焼ということの真の性質が発見される以前の化学についても、簡単に申せます。化学に関しましては、この講堂はまさにその研究に捧げられた場所ですので特に言及に値するかと存じます。栄光のフランスと不朽のラヴォワジエこそがあの大発見をし、それまで茫漠とした諸理論と間違った仮説の詰め合わせ状態だった化学を救い上げ、今日におけるような確固たる基礎の上に据えたのでした。
 とはいえ、近代の社会学における諸理論と、他の科学において、それが完成に至る前に跋扈していた諸理論との間には、一つ違いがございます。プトレマイオスデカルト天文学理論というのは、これは間違った理論でした。あるいは真理の萌芽がほんの少し含まれているに過ぎませんでした。化学における燃素理論などは、ほとんど完全に間違いでした。さて、近代の社会学における諸理論というのは、これらとは事情が違います。有機体理論は間違いとは申せませんし、模倣理論も、人種間闘争理論も、社会的制御理論も、同類意識理論でさえも、間違いとは申せません(最後の二つは米国発祥の理論です。なお、私自身の提唱している原理については言及を控えました)。これらの仮説をはじめとしまして、社会学における仮説のほとんどは真理なのです。あるいは、これらの仮説がすべて綜合されて、社会学的真理というものが出来上がるはずなのです。

 もう少し最近ですと、南米はブエノスアイレス大学の社会学教授でいらっしゃるErnesto Quesada教授が、非常によく似たことを、しかしさらに踏み込んでおっしゃっておられます。そのきっかけとなりましたのは、大学の学部長であったMiguel Canéが退職されますときに、ある講演会で社会学の研究について厳しいことをおっしゃったということだそうです。いろいろな発言の中で、「社会学なんてのは科学というには程遠い。あんなものは空虚なおしゃべりに過ぎない」とおっしゃいまして、それに続けて、次のように述べたそうです。

社会学者というのは現実を表現するのではなくて誇張する言葉を、科学ではなく空想の言葉を吐き捨てて喜ぶ連中だ。様々な人間集団、それを動かす原因、その他集団の活動を定める要素といったものを研究するというのは、すなわち一般性を持った原理を、とりあえずは暫定的に、とはいえその後の研究の基礎となるような形で提出するということだ。しかしそんな仮説と経験的に確かめられたこととがごちゃごちゃになっているものを、確固たる不変の境界を持った科学だと称するのはどうなのか。社会学を代数とか力学とかと同じ意味で科学と呼ぶのは、あまりにも踏み出しすぎじゃないのかと私には思える。科学というものは、真理と証明済みの法則だけが支配する不動の領域であるべきなのだ。社会学者が20人いて、社会学的研究のプログラムを用意しろといわれたら、20個の異なるプログラムができること請け合いだ。それぞれの社会学者の気質、受けた教育、採用する方法によって全然違うプログラムができるはずだ。幾何学者が20人いても、斜辺の研究とかいって斜辺が持っていない性質を持っていると主張するような人は一人もいないのと較べてみるがいい。

 Quesada教授はこの批判のすべての点について完全な反論をしているのですが、一つだけ述べていないことがあります。それは、Cané学部長のいうような、社会学と数学を比較するというような批判は完全に的外れだという点です。だって数学というのはそもそも具体的な事物を研究する科学ではなくて、すべての科学が自らを検証するときに使う規範に過ぎないわけですし、ましてや代数なんてものは、計算問題を解くのに使うただの道具なわけですから。
 とはいいましても、Quesada教授は絶対的に固定した科学なんてものはないんだということを非常に明確に示していらっしゃいます。どんな科学も、最初は一定の公準、つまり証明されていない命題ですとか仮定ですね、そういうものを置いてからでないと始められないのであって、その上に築いていかないといけないということです。Quesada教授は科学の各分野におけるそういう公準のうち、主なものを列挙し、それが各分野の大御所によって定義されていることを示しておられます。教授はさらにですね、それらの公準というのが必ずしも根拠の確かでないのが少なくないこと、そしてたとえば化学における原子の公準がそうですが、我々の知識が前進するにしたがって根底的な修正を被ってきたものもあること、こうしたこともきちんとおっしゃっております。教授は、「真理と証明済みの法則だけが支配する不動の領域」などというものは存在しない、すべての科学はつねに完成途上にあり、社会学もその例外ではないんだということを明示された、といえるでしょう。Quesada教授のご指摘はこれにとどまりませんで、社会学がすでに非常に重要な一個の科学となっていること、さらには実践的な事柄に直接応用できる段階にまで来ていることをも指摘されておりますし、アルゼンチンの立法者や政治家が国や国民の利益を増進するのに社会学をどうやって使えばいいか、それも呈示しようと、講演の中で請け合われております。
 社会学に向けられている批判のすべては、Quesada教授と同じような仕方で簡単に反論することができます。そこで、目につく批判というのをちょっと頑張って集めてみて、それらに共通する誤謬をつきとめました。この研究の成果を皆さんに披露しようかと思ったのですが、ちょっと時間が足りないのもありますし、少し冷静に考えてみますと、社会学はそういう障碍物をものともせずに突き進んでいる最中であって、社会学に敵対する人たちが何をしようとこの確実な前進にとっては何するものぞという状況だという結論に至りました。そこで以下では、社会学がこれまで歩んできたいくつかの段階を皆さんにお示しして、いずれ社会学が偉大なる諸科学の一員となる日に向かってこれまで何が達成されてきたのかを確認してみたいと思います。
 社会学がこれまで達成してきたことでおそらく最も重要なのが、社会とは何であるかということを示したことでしょう。社会とは一個の「有機体」である、とまあここまでいう人は今ではほとんどいないわけですが、少なくとも社会はすべての部分が互いに有機的に結びついた一個の巨大組織である、これを示したことです。もう少し詳しくいいますと、人間の制度は社会の構造、器官、有機的部分を構成しており、それらは互いに独立ではなくて、互いに結び付いて一つの巨大なシステムを作り上げている、それが社会である、とこういうことを社会学は示してきたわけです。このことは、完成した社会を研究した成果でもありますし、また人間の制度の起源の研究によっても確証された真理でもあります。人間の制度というものがどうやってできてきたか、これもすでに示されているわけです。社会学は人間の制度を、その原始的な、分化のあまり進んでいない時期の形態にまで遡って調べ、その同質状態から現在の多様状態へと発達してくる様子を研究してきたのです。まず制度の分化を調べ、それからその統合を調べたのです。
 その結果、私どもは、社会とは実際に何なのかということを知るに至りました。社会学によって、人生というこの巨大な迷路の中で迷わずに済むようになったのです。人類とは何であり、どのように成立したのか、いつ頃どこら辺で発生したのか、どのように発達し進歩してきたのか、どういう経路でいまあるような状態に至ったのか、こうしたことが社会学によってわかってきたのです。「汝自身を知れ」、かつてギリシャの哲学者たちはこう言いました。ところが、社会学による起源の研究が行われそれが成功を収めるまでは、人間が本当に自分自身を知ることはできなかったのです。
 社会学によって私どもは、人間の制度のうち最も重要なもののすべての真の起源について知るに至りました。宗教、言語、結婚、慣習、戦争、人肉食、奴隷、カースト、法律、法学、政府、国家、所有、産業、芸術、科学、このいずれも例外ではございません。社会というのはこんがらがった巨大迷路でも無意味なカオスでもなく、ある法則と力から発生したものであり、社会的な原因から生じた産物であることがわかり、それが歴史の中でどのような位置を占めるかということが明確になったのです。
 とはいえ、社会学が提出した成果はこれにとどまりません。社会の法則を発見しただけではなく、社会的な作用が働く原理をも発見いたしました。この点では物理学よりも先を行っているのです。今のところ、物理学というのは重力の法則は発見しましたが、その原因ですとか原理についてはまだ発見できていないからです。社会学は社会進化の法則を発見したばかりでなく、その法則の基礎となっている、ということはその法則を説明することのできる原理をも発見してきたのです。生物学で申しますと、有機体の進化法則についてはGoetheやLamarckが発見いたしましたが、その法則がなぜ成り立つかということを説明する自然選択の原理が発見されるまでは未完成のままだったのです。社会学もこれと同じで、どれだけ明確な法則であっても、社会進化の法則を定式化しただけでははなはだ不十分でして、そのため自然選択に対応するような、社会進化の過程を説明する社会学的原理を見つけるのが次の仕事となったわけです。もちろんそれは自然選択とは異なる原理になるわけですが、目的は同じなのです。また生存競争に由来するという点では自然選択に似ているのですが、生存競争で生き残った要素が遺伝によって選択されて残るという原理ではございませんで、相対立する要素同士が一つに結び付いて、その結合と同化の結果社会進化が起こるという原理なわけです。そうやって自然綜合によって社会構造はどんどん高度なものになっていき、それに合わせて社会もある段階から次の段階へと進化していくのです。競争する集団同士が、それぞれの持つ最も強力な性質同士を結合させ、それぞれの遺伝系統を飛び越すことで社会的な効率性を倍加させ、そうやってできた新しい産物をより高度な生存平面に置くわけです。文化の交雑というわけです。
 科学あまたある中で、社会学の位置というのは確立してきています。進化の法則によりますと、専門性と複雑性の最も高いものが最も進化しているといわれます。その意味では、社会学は偉大なる諸科学の中でも頂点に位置しているのです。どの自然領域にも働く普遍法則があるということを示すという点では、社会学は生物学、化学、物理学、さらには天文学にも匹敵するほどの多数の知見を提出してきましたが、社会学の直接の基礎となっているのは、元々社会学の母胎でもあった心理学です。社会学の駆動原理は心理的な原理だからです。そしてこの原理の研究によって、社会的現象というのも真の自然力の作用によって産出されるものでありことが判明し、攪乱要因をすべて取り除いてやれば、この自然力が重力や化学的親和力や有機体の成長と同等の規則性と信頼性を示すということがわかってきたのです。
 その結果、社会力学というサブ科学の成立が可能になり、物理学における力学と同等の完全性をもった研究が可能になりました。少なくとも、社会の中で生じる現象を、静的なものと動的なものに分けることが可能になりました。この区別はComteもぼんやりと、またSpencerもそれに輪をかけてぼんやりとではありますが気づいておりました。しかしこの区別が十分かつ明確になされるようになった途端、社会現象の全領域がぱっと開けたのであります。社会静学は社会構造を対象とするもので、あらゆる社会構造、人間制度の起源を説明するものと言われます。社会秩序の基礎となるものです。これに対して社会動学は社会変動を対象とし、社会構造や人間の制度に生じるあらゆる変化を説明するものです。社会進歩の科学なのです。どちらの科学につきましても、その領域を支配する法則はすでにだいたい発見され定式化されており、その作用の仕方も記述されております。
 これらの成果はすべて、社会的エネルギーを注意深く研究するだけで得られたものです。ところが社会学はそこにとどまりませんでした。もっともっとはるかに難解な、社会的制御の領域にまで果敢に飛び込んでいったのです。社会的エネルギーというものは、ともすればその適正範囲を越えて社会秩序の転覆の危険をもたらします。それを防ぐためには、その作用を効果的に抑制してやる必要があるのです。社会の駆動力を、社会の安全と調和しうる程度の規模になるように、いくつかの流れに分けてやる必要があるのです。それをやってきたのが人間の高度な精神や知性でした。そうやって社会の駆動力を導く主体は、駆動力そのものと較べてはるかに微妙繊細な要素であり、その分理解するのもはるかに困難なものでした。ところが社会学はそれを研究するという困難な課題を前に萎縮することなく、その法則と作用を解明したのです。研究は十分に進み、大体のところは定式化と記述が完成しております。社会の動学とそれを導く主体について完全な解明に至った結果、社会学は社会に生じるすべての事実と現象、つまり社会の起源、社会の歴史、社会の現状について、完全に科学的な仕方で扱うことができるようになったわけです。
 最後になりましたが、現在社会学は、社会動学とこれまでの社会の進歩に関する知見と、過去から未来を判断することを可能にする社会斉一説という確立した法則によって、将来の社会を予見し、さらに既存の社会構造をこれからよりよいものに改善していくために確立した科学原理をどう応用すればよいかということについていくつかの提案を行い始めています。言葉を換えて申しますと、純粋科学としての地歩を固めた社会学は、いままさに、応用の段階に入らんとしているのです。そして応用こそが、社会学の存在理由たるべき偉大なる実践的目標なのであります。