ハーサニ略歴

昔書いたレジュメを見ていたらこんなのが!

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Harsanyi略歴

 John Charles Harsanyiは1920年5月29日、ブダペストで生まれた。一人息子。父はCharles Harsanyiで、母はAlice Gombos Harsanyi。
 両親ともユダヤ系だが(差別のため)カトリックに改宗。父親は薬剤師で薬局を経営。裕福。両親とも教育がある。
 小学校の最初の数年間は家庭教師をつけられた。
 小学校卒業後は、ブダペストにある有名なルター派ギムナジウムに入学。卒業生には他に、John von Neumann(生涯会ったことはない)や物理学者のEugene Wigner、およびNicholas Kaldorがいた。
 1937年、ハンガリーの全国高校生数学大会(幾何学、三角法、数論)で優勝。このとき授与された指輪を生涯身につけていた。
 1937年、高校卒業とともに兵役免除のために薬学のコースに入る。
 1939年、数ヶ月間、フランスのグレノーブルで皮革化学の勉強をするが、第二次大戦の勃発とともにハンガリーに帰国。
 最初は、数学と哲学に興味を持ちつつも、父親の薬局で働けるようにブダペスト大学で薬学を専攻。植物学の博士課程に進学(興味はあまりなかったが、徴兵を避けるため)。しかし、顕微鏡用の標本を切る作業ではトップに立てなかった。彼の切ったものはいつも分厚すぎた(笑)。
 1944年3月ドイツ軍が侵攻してきて、Harsanyiは強制労働に徴発される。ユダヤ系のキリスト教徒であることを示す白い腕章をつけさせられる。ソ連軍の侵攻に伴い、ナチスはそこからオーストリアの鉱山ないし収容所への移送しようとした。途中で脱出し、3人の友人を頼ってイエズス会に避難。1945年1月、ソ連軍の到着により解放される。
 第二次大戦後、ブダペスト大学に復学。最初は数学専攻だったが、哲学・心理学・社会学へ移行。そこで後に社会学研究所の助手(university assistant)となり、将来の妻Anne Klauber(ユダヤ人、心理学専攻)と出会う。Anneは彼の講義の遅刻魔で、一回Johnに講義終了後叱られている。1947年に哲学でDr.Phil.を取得(哲学の誤謬に関するものだったらしい)。
 1948年、スターリン主義の政権が成立。Harsanyiはリベラルだったため睨まれる(1948年の夏、師匠のAlexander SzalaiからHarsanyiのbig mouthが命取りになるだろうから、いまのうちに薬局へもどれと警告)。大学を辞め、父親の薬局に戻る。しかし、1950年に企業の国営化が開始。
 1950年4月にAnneおよび彼女の両親とともにハンガリーオーストリア間の国境を越える(西ドイツに行こうとした)。いろいろ回り道をしたため3日かかる。このときのガイドは、Harsanyiの次の組を案内したときにつかまって刑務所に入れられた。
 オーストリアでは、オーストラリアへの移住許可が出るまで7ヶ月待たされた(最初はウィーンの難民キャンプ、二ヵ月後にザルツブルクのキャンプに移る。そこでGuntherのInside USAとSamuelsonのEconomicsを読む)。
 ハンガリーから米国への移住者リストが満員になるまでということで、オーストラリアはシドニーに移住。
 シドニーについて3日後の1951年1月2日にAnneと結婚。
 そこで3年間、昼間は工場で働き(薬品の計量、冷蔵庫の組み立て、肩パッドの切断、作業は下手だったので、最終的には石炭採掘協会の事務員になって統計の準備をする仕事についた)、シドニー大学の夜間部で経済学を学んだ。他方、Anneはドレスメイカーとして結構成功。1953年、M.A.を取得(“The Research Policy of the Firm”)。本当は社会学の研究を続けたかったのだが、当地の社会学者と趣味が合わず、経済学にした。
 1954年ブリズベンのクィーンズランド大学で経済学の講師(通信課程)に就任。その前に国際貿易に関する論文をどこかに発表しているが不詳。ここではじめて経済学をちゃんと勉強し、von Neumann and Morgensternを読む。水浸しでページがくっついていたので読みにくかった(笑)。
 1956年から、ロックフェラー奨学生として、スタンフォード大学で学び、そこでKenneth Arrowの指導の下、経済学のPh.D.プログラムをとる。1959年、Ph.D.を取得(Arrowは2年間の休暇中で直接の指導教授ではない)。Arrowのもとを訪れたときからすでにPh.D.論文の構想はできていた。笑い話:Arrowから実例を追加せよといわれて追加してPh.D.をとったHarsanyiだが,数年後にある学生がその実例における計算は完全に間違っていることを発見した。つまり、HarsanyiもArrowも実例なんかちゃんと読んでチェックするに値するとは思っていなかったということだ(Maschler)。
 奨学生は1年で終わり、その後はYale大学のCowles Foundation for Research in Economicsの客員として、またStanford大学の客員助教授として、滞在。
 ヴィザ切れで帰国後、クイーンズランド大学にちょっと戻り、1958年から1961年までキャンベラのオーストラリア国立大学でSenior Fellowとして、1961年から1963年までデトロイトのウェイン州立大学で経済学正教授として教鞭をとる。
 1964年から1990年まで、California大学Berkeley校のHaas School of Businessで教鞭をとる。実はこのとき、ArrowによってStanfordにも招請されていた。最初は客員教授だったが、1965年から正教授になる。1966年からは経済学部にも在籍。
 1964年にUnited States Arms Control and Disarmament Agencyにソ連との交渉で助言すべき10人のゲーム理論家に選ばれる。しかし、米国とソ連が双方の情報を知らないために助言は不可能という結論に。以後、不完全情報ゲームの研究に没頭。
 1990年、Berkeleyを退職したとき、Berkeley Citation(Berkeley最高の賞)を授与される。この年、オーストラリアにいたAnneの両親が死去し、初めてオーストラリアから米国へ国籍を移す。
 1994年、John NashとReinhard Seltenとともにノーベル経済学賞(the Bank of Sweden Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel)を授与された。不完全情報ゲームに関する仕事が認められた。1994年10月11日(火)午前4時45分、電話が鳴る。知人が重病になったかノーベル賞をとったかのどちらかだと思ったという。このとき息子のTomはHarvardの院生。
 1996年、カン大学から名誉学位をもらった。などなど、計7つの名誉学位を世界中の大学からもらっている。
 1996年から97年にかけて、The Society for Social Choice and Welfareの会長を務めた。
 2000年8月9日(水)に、Berkeleyの自宅において、心不全で逝去(享年80)。アルツハイマー病だった。
 campus community用の葬儀は8月31日(木)午後4時からFaculty Club Great Hallで。
 Donations in John Harsanyi’s memoryは、Alzheimer’s Association of the Greater Bay Area, 2065 Welt El Camino Real, Mountain View, Calif., 94042に送られる。
 妻AnneはBerkeleyで、息子TomはSomerville, Mass.で健在。
 米国のNational Academy of Sciencesの会員であり、American Academy of Arts and SciencesのFellowであり、Econometric SocietyのFellowだった。
 黒板に向かうときは、右手にチョーク、左手は背中。
 BerkeleyではAnneが大学まで送り迎えしていた。
 愛用の計算機はTI-58C