コロンブスの卵

 「コロンブスの卵」という表現があるが、使い方が間違ってることが多くないかと思うのだ。
 たとえば「それは気づかなかった。コロンブスの卵だね」とか、「コロンブスの卵的な発見」といった感じで、発見してみたら実は簡単なことなのに、なぜかなかなか気づかれにくい事柄について、発見者のひらめきをほめるために使われることが多い。しかしそれでは、実際には発見の内容それ自体は陳腐であり、それがすごいことのように見えるのは、発見される前の状況がそれを隠蔽していたからだということになってしまう。つまりあんまりほめたことにならない。ひらめきというのは本人の業績にはカウントされにくい。天啓が、たまたまその人に降りてきただけなんだから。
 というか、本来この言葉はほめ言葉ではないんでないか。つまり、どんな偉大な発見も発見後には陳腐に見えてしまうという凡夫の習性、米大陸の発見後に「そりゃずっと西に行けばどっかの大陸に到達するのは当たり前じゃん」みたいな言い方をしてしまうのを戒める言葉なのではないか。あるいは翻って、現在陳腐なものと扱われているものの最初の発見者を〈再〉評価するための言葉なのではないか。
 だとするとこの言葉はある種の社会学の方法に通じるものがあるといえるかも(これは蛇足かな)。

追記

なんてことを書いたのは、この本↓を読んでいたらこんな表現があったから。野々宮さんというのは漱石の『三四郎』に出てくる物理学者で、アインシュタインの光量子仮説が提唱された1905年から3年しか経っていない時期に光の圧力の話をしている野々宮さんは偉い(書いた漱石は偉い)という流れ。

というように理論は展開され、量子論的な考え方に発展していくのであるが・・・・・・残念ながら野々宮さんは(おそらく寺田寅彦がそのモデルだろうが)そこまでは言及していない。世界の物理学者が暗中模索のこの時期に、もう一寸突込んで考えてみたら理論物理学上の大進歩を・・・・・・などという気がしてくるが、しょせんコロンブスの卵であろう

そうか、コロンブスの卵というのはこういう使い方をする言葉だったのか、と思った次第。