長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』合評会レジュメ
2007年1月28日、東京経済大学にて、著者臨席のもと、馬場靖雄さんと一緒に報告。
- 作者: 長岡克行
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2006/09/29
- メディア: 単行本
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1.総評
感嘆すべきルーマン紹介書
本書は、ルーマンの所説を紹介した本、著者自身の言い方では「横のものを縦にした紹介書」である。本書の特徴は何よりもまずその分量であり、扱っているトピックの包括性であり、それらについてのルーマンの所説の網羅性である。これらの点において類書は本書に遠く及ばない。率直に言って評者は、通読して(というか途中から)、「ああもうこれでルーマンを読む必要はないな」と思った。それくらい、「〜についてルーマンはどんなことを言っているか」「〜と言われたらルーマンはどんな返し方をするか」「誰某の議論をルーマンはどのように批判しているか」が、すべて載っているといっても過言でないような気がする。もちろん主題の設定に限定はある(抽象→具体で言うと、一般システム理論→一般社会システム理論→一般社会理論。各具体化段階で別様可能性がある)ものの、この主題設定に関しては、本書に加えてルーマンを読んでも得るところは少ないと思った。著書70冊、論文400本、総頁数2万頁を数えるルーマンの所説を、こんなに小さな本で(!)一望の下におけるということを、われわれはまず喜ばねばならない。
研究書ではなくあくまで紹介書
他方、これに対応して、ルーマンを読んでわからないこと、納得しづらいこと、賛成しがたいことが、本書を読んでわかったり納得できたり賛成できたりすることもないなと思った。そういう意味では、本書はルーマンの(真の意味での)研究書でもなければ、社会システム理論の研究書でもない。紹介書という著者の自己規定はまったく正確だと思う(日本現象学・社会科学会での著者の報告でも、本書が紹介書であって研究書でない旨、また真の意味での研究については、すでに取り掛かられている旨、繰り返し強調されていたと記憶する)。
他の論者への批判
本書の以上のような性格から、本書には著者自身の主張はあまり出てこないし、論争的な部分もあまりない。例外的に論争的なのは、主に補論や章末註で展開されている、他のルーマン紹介者・批判者たちの誤りを指摘する部分、いわば「横のものを縦にし損なっている人たち」への批判である。おそらく本書がルーマン業界に引き起こす攪乱は、この部分を足掛かりに始まるのではないかと思う。しかしこの点について論じるのは、そこで批判されている論者たちの反応を待ってからでも遅くはないし、実のところ著者の批判は適切だと私も思うので、ここでは触れない。
訳語の問題
もう一つ、業界批判と関連して訳語の問題がある。著者は業界で定訳になりつつあるものに対してその不適切さを指摘し、別の訳語を提案している。複雑性ではなく複合性(Komplexität)、偶有性・不確定性ではなく偶発性(Kontingenz)、作動ではなく操作(Operation)(ただしこれについては「作動」が批判されているわけではない)。評者の意見を書いておくと、Komplexitätについてはよくわからない。Kontingenzについては、偶然に有している性質(ゆえに本質ではない)という意味での偶有性よりも広い概念だし、他でもありうるためにはそれ自体は確定していないといけないので不確定性ではないという指摘に大賛成であるが、なぜ偶然性でなくて偶発性というのかがよくわからない。必然/偶然のセットの方が明確だと思う。他方、Operationを操作と訳すのには反対である。西洋語のoperieren, operateが自動詞であるのに対して、「操作する」は他動詞であり、本書で「システムが操作する」という頻出する言い回しに出会うたびに、システムが何か別のものを動かしているような情景を想像してしまう。そういう意味で、やはり自動詞である「作動する」の方がましだと思う。ただし、著者が引いているバレラの発言(p. 119-120)からは、operational closureという表現が数学の「演算上の閉じ」から来ていることが窺えるため、「算」に多少の違和感を覚えつつも、演算と訳すのが適当なのではないかとも思う(実は評者は前から演算と訳すことにしている)。
本書の意義
私事で恐縮だが、評者は現在執筆中の博士論文の第一章を、ルーマンの理論体系の概説的な要約にしようと思っていた。論文の主部分は、そもそもそのような体系構築をやることにどんな意味があるのか、何が動機なのかを、特に初期ルーマンのやろうとしていたことを準拠して批判的に検討するというものになる予定だが、それはともかく、第一章に取り掛かるのがめんどくさい(笑)と思っていたところ、本書が、評者の計画していた第一章の節構成を包括するような章立てで出版されたため、批判的検討の方に集中することができるようになった。このように、本書をルーマンの代わりに参照することで、「読解」の労をかなり削減し、「考える」作業に集中することができるようになると思う。ルーマン学説研究から、ルーマンを叩き台にした理論研究への発展過程は、本書によって加速されたと確信する所以である。
2.各論
以上のように、本書は紹介書としての性格を強く持つものであるから、本書と真っ向から対峙するには「その紹介の仕方は正しいか」という細かい検討を要するだろう。この作業は是非とも必要であるし、実は評者はそういう細かいのが大好きなのだが、短期的にも長期的にもそのような作業をしている余裕がないので、本報告では、本書が要約・紹介したルーマンの所説によって、評者の年来の疑問が解けるかどうかを検討し、著者をはじめ出席者の方々の意見を聞いてみたい。論点は大きく分けて二つ、コミュニケーションの話と、合理性の話である。
(1)コミュニケーション
社会的システムが存続するとは、コミュニケーションが継続することであるという。またコミュニケーションだけがコミュニケーションできるともいう。ルーマンの議論にとって、コミュニケーションというものの単位(Einheit)としての成立を確保することは、最も重要な点である。ところが他方で、コミュニケーションとは情報・伝達・理解の三選択の綜合であるともいう。私の疑問は、なぜ情報・伝達・理解という三つのものがあるというだけではだめで、それらの「綜合」としてコミュニケーションという一つのものがあるといわなければならないのか、これはどこからの要請なのか、という点である。
生命や意識と同様に、コミュニケーションもまた、それ独自のひとつの創発的な実在でなければならないということである。この創発的な実在ということの論証にルーマンの社会システム理論のすべての成否が懸かっているといっても過言でない。(p. 289)
この論証が成功していれば、私の疑問は氷解する。さらにそのためには
伝達・情報・理解の三構成要素がコミュニケーション・システム内部の構成物であって、心的システムの操作には還元することはできないということの論証が必要であるし、そのさいの最大の難関は〈心的な操作には還元できない理解〉という点にある(p. 291)
とある。確かにそうだ。ではなぜ理解が心的なものでないといえるのだろうか。実のところ、この点についての本書の記述は、ほぼ論点先取だと思われる。コミュニケーションの創発的実在性を論証するために、心的ではない理解というものの成立を論証しなければならないわけだが、これをいうのに「コミュニケーション」という言葉があまりにも多用されているからである。この点に注意しつつ、論証を確認してみよう。
伝達をする人は受け手のシステム状態の変化をめざして伝達をするにもかかわらず、コミュニケーションにとって必要な理解は心的に理解することではないのである。何故か。なぜなら、そもそも心的システムは不透明であり、理解する人のシステム状態を外部から見通すことができず、したがってとりわけそのコミュニケーションの瞬間には相手が理解したかどうかはまだ分からないからである。(p. 293)
さて、「相手が理解したかどうか」を「分かる」のは、明らかに伝達者個人であり、この「分かる」というのは伝達者の心的状態のことを言っていると思われる。また
コミュニケーションが理解されているかどうか、誤解されているのではないか、ということが判るのは事後、すなわちそのコミュニケーションに接続する行動、もしくはそのコミュニケーションに接続する次の発言である。この理解テストにおいて理解されていなかったことが判れば、彼はもう一度理解を可能にしうるようなコミュニケーションを試みることができる。
という。そしてこれが
コミュニケーションにおいては理解は以上のようにそれ独自の論理にしたがって扱われている(p. 295)
ことを意味しているという。しかし実質的には、ここで論じられている事態は、伝達者が相手の理解をどう理解するかという心的な事柄に過ぎないように思われる。せいぜい、自分の発話行為(伝達)が相手に理解されたかどうかは、相手の発話行為(伝達)を見るまでわからない、ということしかいえていない(これ自体は当然正しい)。この事実を、理解はコミュニケーションと独立にはありえないと解釈するためには、コミュニケーションという単位があらかじめ設定されていないといけないが、その創発的実在性を論証しようとしている議論の中でそのような設定を持ち込むことは明らかに論点先取である。
もう一つ、この議論の中で、「コミュニケーションが理解される」「コミュニケーションを投入する」「コミュニケーションを返す」といった、伝達者の方に偏った、つまり結局は発話行為のことをさしていると思われる、「コミュニケーション」の用法が散見されることも注意しておきたい。
さてAがBに何か言って、Bが「え、いま何て言ったの」と返す場合、ルーマンはこれをコミュニケーションの自己観察であるという。しかしこの発言で言及されているのはAの発話行為でしかない。この矛盾に対して、ルーマンは情報・伝達・理解という3つの選択の総合としてのどのコミュニケーションも、すでに触れたように、そのコミュニケーション自身にとっては直接的には観察することができず、推定できるにすぎない。/それゆえルーマンの見解によれば、コミュニケーション・システムが自己を観察するにあたって、観察可能な行為によってコミュニケーションを代表させ、コミュニケーションを行為という旗で示すということがおこなわれているのである。(p. 301)
という。コミュニケーションは観察すると行為に縮減されるという議論である。しかしこれも、コミュニケーションの創発的実在性を前提するから必要になる話であって、もともと情報・伝達を含んだ発話行為と、その理解という二つのものがあって、もともとある発話行為が、それについての理解に基づく発話行為によって言及されているだけだ、という記述の仕方が十分に可能である。
以上のように、コミュニケーションと呼ばれている事態を見ても、三つのものの綜合としてコミュニケーションという一つのものを立てる必然性についての論証は、成功しているように見えない。他方で、社会システムのオートポイエーシスという議論のためには、この種の、心的なものに還元できない要素単位が不可欠である。コミュニケーションという単位は、このような理論的要請に由来するものではないかと思われる。(2)合理性
ルーマンが「システム合理性」を、新しい合理性概念として提案してきたことは周知のとおり。しかしよくわからないのは、前期の「システム存続の維持(=複雑性の縮減)」という定式化と、後期の「システム/環境の差異のシステム内への再参入」という定式化の間に、どういう関係があるのか(何が変化したのか、何かが改善されたのか)、また、このように新しい合理性概念を提案してルーマンは何がしたかったのか、ということだ。
本書では、第18章が「システム合理性」に当てられている。そしてシステム合理性という概念の以上のような難点を解決するには、操作的に閉じたオートポイエティックな自己言及的システムの理論への移行をまたなければならなかった。(p. 648)
という。つまり、前期の定式化にあった難点を解決することが変化の意味だという理解である。その難点とは、
〈システムの存立には複合性の縮減が不可欠である〉という命題は、〈システムの存立の維持のためにはシステムは複合性を縮減しなければならない〉という命題と連続的である。このために同書とその合理性論は現存システムの存立の維持、ひいては現存システムの基礎構造の維持を狙ったニュー・タイプの理論であると理解されたのであった。(p. 648)
ということだという。しかしこの書き方ではどこが難点なのかわかりにくい。そのように「理解された」ことがまずかったのか(つまり書き方の問題なのか)、それとも概念自体に問題があったのか、不明である。さらに後期に至って
システム存立にとっての複合性の縮減の必要性もシステムと環境との複合性の落差も少しも否定されたわけではないが、システムの形成の説明方式は、複合性の縮減から、操作の接続を通じたオートポイエーシス(自己生産)へと転換された。ルーマンはこの転換において、従前の彼のシステム合理性という概念の基礎にあったシステムと環境の差異という観点は手放すことなく、システム合理性をシステムの反省の一形式、別の言い方をするとシステムの自己観察の一形式として捉え直す。そのことによって、「合理性とはなによりもまず、複合性の縮減である」とされていた従前のテーゼは乗り越えられた。(p. 649)
という。「複合性の縮減の必要性」が否定されていないのにそのテーゼが「乗り越えられた」とはどういう意味なのかよくわからない。ここでわれわれは次の二つの問いを区別して考える必要がある。
(1) 合理性とはどういうことをいうのか。(抽象的、一般的な合理性概念)
(2) システムがその合理性を達成するには何が必要か。(具体的、特殊的な合理性要件)
さてシステム合理性において問題になっているのは、伝統的な考え方に見られたような統一の達成ではない。そうではなくて、差異の維持である。(p. 658)
という言い方は、(1)への回答である。ルーマンはこの議論を合理性概念の歴史を解説することで示している。少し話がそれるが、一般にルーマンが歴史を持ち出すときは、読者に近代人としての自覚を促す場合であって、それゆえこの見解は直観的な根拠づけに基づいている。「だって近代なんだからそうだろ」というこのやり方は初期から後期まで一貫している。その直観とは脱存在論であり、別様可能性への開放である。この発想自体が初期から一貫しており、そもそも「複雑性の縮減」という定式化自体が、この発想を(2)の問いの水準で概念化したものにほかならない。
さてこの水準での回答は、当然ながらシステム概念の定式化、とくにシステムが存立し、存続するとはどういうことか、ということについての定式化に依存して変化する。「再参入」による定式化は、単にこの種の変化に過ぎないのではないだろうか。それとも、何か新しい発想が付け加わっているのだろうか。しかしこれらすべてのことで、区別の区別されたものへの再参入は強化され、より複合的な接続能力があたえられる。(p. 658)
という言い方を(接続能力=存続能力という点に注意して)見る限り、合理性に関して特に新しいことを言っているようには見えない。
だとすると、前期後期を問わず、一貫してシステム合理性は脱存在論的に捉えられたシステムの存続を基準に考えられているということになる。このシステム存続という発想がシステム合理性概念の本質である以上、前期から後期に至ることで何かが「乗り越えられた」とはいえないのではないか。つまり保守的だとかテクノクラートだとかいう批判が、前期の定式化に対して妥当なのであれば後期のそれについても妥当であり、後期の定式化がその非難を免れているとすれば前期のそれも実は免れていた(非難は誤解だった)ということになるのではないか。