本当は〜だという言い方

 蓋然的に見えているが本当は非蓋然的なのであってそれが蓋然化されているのだ、とか、論理的に見えているが本当はパラドクスがあってそれが脱パラドクス化されているのだ、とか、行為に見えているが本当はコミュニケイションなのであってそれが行為として観察され誰かに帰属されているだけなのだ、とか、こういう言い方が可能であることがルーマンの議論の核である。しかしこれらの「本当」はどこにあるのか。どうしたらわかるのか。