なんでコミュニケイションが社会的システムの要素だといえるの?

 オートポイエーシスっていうよね。自己生産のことだよ。それも、なんでも自己生産ってことで、だから構造の自己生産しか考えていなかった自己組織化理論より強力で、ターボチャージャー付いてるってルーマン先生も言ってるよ。
 なんでもっていうのは、あるシステムに属するものはなんでもってことで、構造以外に、そのシステムそのものも、要素も、なんであれ一単位(Einheit)として数えられるものはなんでもってことだよ。「あるシステムで一単位として扱われるものは、そのシステムによって一単位として構成されないといけない」っていうよ。
 で、このオートポイエーシス的な社会的システムの要素は、コミュニケイションなんだって。ルーマン先生がいうには、コミュニケイションていうのは、情報と、その情報を発信する行為と、その行為の理解の3つの選択的な出来事の綜合なんだって。綜合っていうのは別々のものが合わさって一つになるってことだよ。
 ふつうは、コミュニケイションスキルとかいうときには、それは情報発信の技術のことだったりするよね。だからコミュニケイション行為とかいって、ある種の行為をコミュニケイションて呼んだりするよね。あとは、もっと客観的に情報の流れのことをコミュニケイションていうよね。
 そういう意味では、ルーマン先生のコミュニケイションの捉え方は独特で新しいね。ルーマニ屋っていうルーマン先生好き好きの人たちがいて、この人たちは、「ルーマンによればコミュニケイションとは・・・」って、その革新的な定式化をよく紹介しているよ。
 あれっ、でもへんだなあ。この捉え方が独特で革新的だってことは、今までそういう捉え方をする人がいなかったってことだよね。ルーマン先生がいうような形で「ここからここまでが一つのコミュニケイションだよ」っていう人がいなかったってことだよね。ってことはさあ、ルーマン先生が言うようなコミュニケイションて、システムの中で一単位として扱われてこなかったんじゃないかなあ。
 システムの中で一単位として扱われるものがシステムによって生産されないといけないっていうのがオートポイエーシスの意味で、この概念に合うように定式化された社会的システムの要素がコミュニケイションのはずなんだけど、コミュニケイションがシステムの中で一単位として扱われないんじゃ、これは困ったことになるよねえ。うーん困った。
 でねでね、読んでみたよ、『社会的システム』。えーとねー、なにかを一単位として捉えることを「観察する」っていうんだって。区別してその一方を指示することなんだって。ふーん、でもまあいいやそれは。
 で、第四章が「コミュニケイションと行為」っていう題名で、こんなふうに書いてあるんだけど。「コミュニケイションは観察できないよ。観察したら行為になっちゃうよ。」だって。えーっ、観察できないのー? 観察できないってことはやっぱり一単位として扱えないってことじゃんかー。観察したら行為になっちゃうってことは一単位として扱われるのは行為ってことなんじゃないのー?そしたら社会的システムの要素は行為ってことでいいんじゃないのー?
 なんでルーマニ屋の人たちは、ルーマン先生のコミュニケイションの捉え方の独特さをほめながら、コミュニケイションが社会的システムの要素だって話までほめることができるの?むじゅんしてないのー?わけわからんよぷんすこ!