脱常識化のためには常識が存在しなければならない

 ルーマンの機能主義の基本発想は、比類ないと思われているものに特定観点から見た場合の等価物を対置して、実は比類ある=比較可能であることを示すこと。
 ルーマンのシステム理論の基本発想は、本当はさまざまな可能性の中のひとつでしかないもの、それゆえ実現する確率が低く、つまりは非蓋然的であって当たり前でないものが、どのようにして蓋然的なものと見なされるようになったか、どうやってそれが当たり前になったかを描くこと。
 当たり前の方から出発するか、当たり前でない方から出発するかの違いはあっても、当たり前が本当は当たり前でないという発想は共通である。言い換えると脱常識化、あるいは反直観的なアプローチである。
 さてこのアプローチが有意味なのは、脱常識化されるべき常識が存在する場合、相対化されるべき直観が存在する場合だけである。そしてそれは、常識でも直観でもいいが、そうした当たり前が共有されているということである。共有されているという言い方が特定的すぎるなら、当たり前が対象領域に何らかの形で存在しているということである。
 脱常識化的アプローチをとる社会学者は、この対象領域における常識=当たり前を正しく知っていなければならない。当たり前を捉え損なっている場合、機能分析は空回りし、非蓋然性の蓋然化命題は偽となる。どうしたら常識が身につくかはよくわからないが、常識のない人に社会学はできない。もちろん非常識な人によって常識が破壊されることはあるが、盲滅法は学問の方法ではない。
 常識に対して懐疑的であることと非常識は同じではない。