問題は構造の同定
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20070107/1168170564
そこが最大の対立点なら、あまり対立していないわけですが。以下、あんまり練れてない(というかそんなに考えてない)ですが、こんな感じで考えているということを。対立の分岐点が明らかになれば。
(追記)
書き終えてみたら何に反論したいのかわからなくなってしまった・・・。
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ある現象を観察して、その観察だけから、その現象がこれこれの選択肢集合からの選択であるといえるか。いえないと思う。「それはある集合の要素ですが、どんな集合の要素でしょう。」といわれても答えられないのと同じ。
ある作動を観察して、それがどんな構造の下での作動であるかがわかるか。わからないと思う。
ただし、「作動を観察する」ということが、「特定の構造の下での作動として観察する」ということでしかありえないという議論は可能。これは行為というのは何らかの制度の成分としてしか可能でないから無秩序が定義できず、それゆえシステム形成による複雑性縮減というのは無意味な概念だといった宮台の議論と基本的に同じ。
しかしこのとき、観察対象が作動として観察できるためには、それがどんな構造の下での作動であるかが、観察者にとって遅くとも観察と同時にわかっていなければならない。では、観察の以前か、観察と同時か。
観察者が観察以前に構造同定を終えているなら、対象領域においても構造は作動以前に存在する(認識論的な意味での「既知」は存在論的な意味での「既存」を含意する)。
観察と同時なら、対象領域に以前から存在していた構造が、作動を待ってはじめてわかるという立場と、存在論的にも同時に構成されるという立場の二つが可能である。後者は構造/作動の二元論を(対象領域の記述として)使う意味をほとんど無化してしまうのでまずありえない(のだが、時々ルーマンはこういうおかしなことを言っているような気がするところがあって困る)。前者は、議論としては可能だが冒頭に書いたようにどうやったらできるのか私にはわからない。
なので、構造は観察以前に既知だと思う。しかしそのためには、作動とは独立に構造を同定できなければならない。しかし観察できるのは作動だけなので、観察から構造の同定を導くことはできない。それゆえ、構造は最初から既知だということになる。宮台は「システム先取」という言葉でそのことをいっている。そのうえで、では何をすることが社会学の知見を深めることになるかが次の課題だが今は措く。
いずれにしても、システムの本質的な成分が構造であり、作動を捉えるには構造についての知識が必要だが、作動を観察しても構造のことがわかるわけではないのであれば、作動の経験的観察はシステムの理解にとって本質的に重要とはいえない。逆に、システムの理解は、作動の経験的観察にとって本質的に重要である。
実際、社会的システム(とみんなが呼んでいるもの)についてのわれわれの知識は、その作動の観察から帰納的に得られたものではない。たとえば編集会議が何をする場であるかを、私は会議の前から知っている。私が知っているということは、私に聞けば他の社会学者も知ることができるということだ。私の説明を聞いてきちんと理解できなかった人は、実際の会議の模様を見てもその作動を正しく観察することができないだろうが、それはそれだけの話である。