Ole Bjerg, Accelerating Luhmann

Ole Bjerg, 2006, "Accelerating Luhmann: Towards a Systems Theory of Ambivalence," Theory, Cultre & Society 23(5), pp. 49-68
やばそうな論文げとしてしもた。やっぱり「ルーマンを加速する」と「ルーマンが加速する」の二重の意味が込められているのでしょうか。

三谷メモ

 要するに、ルーマンは複雑性の縮減、パラドクスの解決しか見てないから駄目で、複雑性の産出、パラドクスの産出も組み込んでいるボードリヤールの方が偉いよ、っていう話。
 これはひどい話で、初期ルーマンの言い方だと「あらゆる問題解決は必ず派生問題を生むよ」、後期ルーマンの言い方だと「システムは複雑性を縮減することによって増大させるよ」、というのはほとんどルーマンの議論の中心テーゼなわけだが、著者はこのことをご存じないらしい。ボードリヤールなんか出してくる前に、ルーマンのどの本でもいいからゆっくり再読することをお勧めしたい。
 英語圏ルーマン論ってこういういい加減なのが多くてうんざりする。

Ole Bjergはコペンハーゲン大学の公衆衛生研究所のポスドク。博士論文は『神秘的な倫理――超分化社会で生きるということ』(2005)。これ以外にもシステム理論についての論文を何本か書いている。いまは『病理とポスト資本主義』という本を執筆中。(論文末尾の著者紹介)

イントロ

  • ルーマンがポスト近代という概念を使わないのは、ポスト近代の特徴といわれるパラドクスが、近代自体の性質だと考えているからだよ。
  • ルーマンの考えているパラドクスは、複数の機能システムがそれぞれ異なる世界記述を掲げることだけど、我々が直面しているのはもっとすごいパラドクスだよ。意味の内破だよ!自己を解体しない限り処理できない複雑性というアンビヴァレンツだよ!だからポスト近代という概念は意味があるよ。ルーマンの用語系と両立しうるポスト近代概念を提案するのがこの論文の狙いだよ。

社会の可能性と不可能性

  • ルーマンの問いの立て方は「社会はいかにして可能か」だよ。可能性が前提だから、ルーマンにはポスト近代社会の特徴が見えてないよ。問うべきは「社会はいかにして不可能か」――これだよ。ポスト近代社会では、コミュニケイションやシステムは可能であると同時に不可能だよ。システムの可能性は接続の可能性だから、システムの不可能性は接続の不可能性だよ。
  • 以下、まず脱構築してから再構築するよ。

複雑性の問題

  • ルーマンは観察というのは区別することだっていうけど、観察対象が区別のどっちの側にも現れたら(どっちにも現れなかったら)どうしよう。ある対象が芸術作品であると同時に芸術作品でなかったらどうなるの?このように、きっちり分けられないってことがポスト近代の特徴だよ。これだと複雑性が縮減できないよ。これがアンビヴァレンツの問題だよ。これをシステム理論用語で言うとパラドクスだよ。
  • ルーマンは、パラドクスは観察(一階)の水準で生じるけど、これをさらにパラドクスとして観察(二階)することで脱パラドクス化できるからシステムにとって支障はないっていうよ。
  • 次節では、ポスト近代ではシステムにとって致命的だけど脱パラドクス化できないパラドクスが生じることを思考実験で示すよ。

ポスト近代的な囚人のディレンマ

  • 犯罪者のマックスとサムがつかまって死刑を宣告されたよ。いま月曜だけど日曜に執行されるよ。マックスは死ぬのは怖くないけどいつ死ぬかが決まっているのは怖い、いつ死ぬかは予期できない方がいいっていうよ。友達想いのサムは死刑前にマックスを絞殺してやろうと思ったよ。夜、マックスが寝ている間にやることになったよ。もちろんいつやるかがマックスに予期されたらいかんよ。
  • サムはいつやるか考えるよ。土曜の夜は最後の機会だから、朝に予期されちゃうよ。土曜が駄目として金曜の夜にやろうとしても、土曜が駄目ということは金曜が最後の機会だから、これも朝に予期されちゃうよ。……と考えていくとどの日も駄目ということになっちゃうよ。
  • サムは混乱するけど、自分の推論が、「マックスも論理的に考え、かつ自分が論理的に考えるとマックスが考える」という前提に依拠したものであることに気づくよ。ということは、「予期されないで絞殺する」ためには、マックスが(どの程度)論理的に考えるか、(どの程度)自分が論理的に考えるとマックスが考えるか、を考えないといけないということになってサムはますます混乱するよ。
  • 考えるのに疲れたサムは結局サイコロを振って4が出たので、処刑の4日前ということで水曜日にやることにしたよ。結局この決め方が合理的なのか不合理なのか、サムは寝る前に考えたけどわからないまま眠りに落ちたよ。

パラドクス

  • サムの推論は、システムの中の演算だと見なせるよ。論理的推論によって選択(複雑性を縮減)しようとしたら、逆に考えないといけないことがどんどん増えちゃうよ(複雑性の増大)。これがパラドクスだよ。で、結局サムは論理的推論をやめちゃうのでシステムは解体しちゃうよ。

複雑性の加速と抑圧

  • サムは殺害日を決めようとして(複雑性を縮減しようとして)、逆に考慮すべきことを増やしちゃったよ(複雑性を産出しちゃったよ)。複雑性の加速だよ。
  • サムは結局サイコロを振ったけど、これは複雑性の縮減じゃなくて複雑性の抑圧だよ。加速されて増えた複雑性は減ったわけじゃなくて見えなくなっただけで、だから抑圧だよ。抑圧しただけだからサムは気になって寝る前にこれでよかったのかとか考えちゃったよ。
  • この加速されて抑圧される複雑性を「アンビヴァレントな複雑性」と呼ぶよ。

複雑性産出理論に向けて

  • このアンビヴァレンツをルーマンはうまく概念化できていないから、ボードリヤールのシミュレーション理論で補完するよ。ルーマンボードリヤールもコミュニケイションが現実をそのまま反映したものじゃないといってるけど、ルーマンはコミュニケーションを観察によって現実を構築して複雑性を縮減するものだと見なすのに対して、ボードリヤールはコミュニケイションは現実をシミュレートするものでハイパーリアリティを作り出すものだと見ている点で、ルーマンより一歩先を言っているよ。ルーマンを加速したのがボードリヤールだよ。
  • ルーマンは観察と(観察対象たる)現実の区別(システムと環境の区別)を必要とするけど、ボードリヤールはシミュレーションによって現実(ハイパーリアリティ)を〈産出〉するわけだから、そういう区別がなくなるよ。

アンビヴァレントな複雑性としての心気症

  • 胸が痛いので心臓病だと主張する心気症者が病院に来たとき、医者としては、心臓病じゃないよと診断するか、心気症ですねと診断するかの選択肢があって、ルーマン的にはどっちかを選ぶことで複雑性が縮減されてシステムが存続するよ。
  • ボードリヤール的には、心臓病じゃないよっていわれても、実際痛いんだから(シミュレートされた痛みとリアルな痛みに区別はないよ)ということで、複雑性は縮減されたんじゃなくて抑圧されただけだよ。心気症と診断した場合でも、この病気は医療システムが行う本当に病気か否かの区別に基づいて発生するものだから、システムは自分では治療できない病気を自分で作り出すことになっちゃうよ。

アンビヴァレントな複雑性としての切り裂き

  • 1986年、Gerard Jan van Bladerenていう無名の芸術家が、バーネット・ニューマンの「赤、黄、青なんて怖くないIII」という絵を美術館で切り裂いたよ。van Bladerenはつかまって、絵は修復されたけど、1997年にまた、今度はニューマンの「司教座」という絵を切り裂いたよ。
  • ルーマン的には、芸術システムは、van Bladerenの所業を「気狂いの犯罪」として扱うか、それ自体を芸術作品と扱うかのどちらかが可能で、どっちかを選べばいいよ。
  • ボードリヤール的には、芸術作品と見なすと作品の自己完結性とかに反するし美術館がむちゃくちゃになっちゃうよ。でも気狂い扱いする場合でも、元の作品のオリジナリティに訴えると、作品の修復が正当化できなくなるよ。修復するということは、van Bladerenの作品を壊すことだからだよ*1。前者が加速で、後者が抑圧だよ。

アンビヴァレントな複雑性のパラドクスは破滅である

  • ボードリヤールは危機と破滅を区別したよ。ルーマンの複雑性の捉え方は、これを危機と見なすものだけど、危機ではシステムの可能性は揺らがないよ。でもアンビヴァレントな複雑性はシステムの不可能性の可能性を開くから破滅だよ。連続は不連続としてのみ可能だよ(だから結局不可能だよ)。

*1:三谷註:この辺明らかに議論がおかしい。