Schutz, Common-Sense and Scientific Interpretation of Human Action

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

人間行為の常識的解釈と科学的解釈

三谷メモ

この論文で、特に社会科学が満たすべき公準を提案することで、シュッツは何を言っているかというと、経済学をはじめとする社会科学に対して、「そのままでいいよ、心配しないでがんばってね」と言っているようにしか見えないのだが、この理解であっているのだろうか。だとしたらシュッツの議論の意義ってどの辺にあるのだろう。

I. 序論――経験内容と思考対象

1)常識の用いる概念と科学的思考の用いる概念

  • 日常の感覚とか経験も抽象の産物だからこれを具体的だと思うと間違いだよ(ってWhiteheadが言ってるよ)。
  • 科学の仕事は経験に合致した理論をつくることと、常識が使っている概念をその理論の中で説明することだよ。そのためには直接感覚経験できないような思考対象を表す概念も必要だね(ってWhiteheadが言ってるよ)。
  • この発想はJames, Dewey, Bergson, Husserlにも共通で、要するに純粋な事実なんかないよ、我々が捉えるのはつねに抽象の産物であって現実の一部だよ、っていう考え方だね。

2)社会科学の概念に固有の構造

  • 自然科学だと、この抽象・選択は科学者が勝手にやるよ。
  • でも社会科学だと、対象領域の人たちが常識という形で先にやっちゃってて、それに基づいて行動しているよ。社会科学者はこの行動を説明しようとするわけだから、人々の概念についての概念をつくらないといけないよ。いわば二階の概念だね。
  • 社会科学者はこれまで、自然科学とまったく違う方法をとるか、自然科学とまったく同じ方法をとるかのどっちかしかしなかったけど、これはどっちもだめだよ。前者だともう科学じゃなくなっちゃうし、後者は社会科学の対象領域の特殊性を無視しちゃってるよね。
  • このディレンマを抜け出すには特別な工夫が必要だよ。そのためにまずは常識が使っている概念の特性を調べてみよう。

II. 常識的思考における思考対象の概念

1)個人が世界について持つ常識的知識とは、世界の類型性についての概念の体系である

  • 日常生活の場である間主観的世界が素面の大人にどうみえているか、というと、この世界は自分が生まれる前からあって、生まれる前から人々によって解釈されてきたもので、そういう人たちから引き継いだり自分の経験によって得た知識を参照図式として使って、いま自分はこの世界を解釈して経験している、とそういう感じ。
  • 世界の中の対象を、我々はとりあえず類型としてみるよ(「あ、犬だ」とか)。
  • 類型としてみるから、その対象がその類型の具現化であるという見方ができるけど、これはできるというだけで必ずそうみてしまうという意味ではないよ(私にとって、うちの犬は犬一般の一つの表れではないよ。友達だよ。)。
  • その対象が持つどの類型(的性質)に注目するかは(対象の側ではなくて)自分の側での選択だよ。つまり、状況の有意性構造(何が有意で何がどうでもいいか)は個人史的に決まるよ。

2)常識的知識の間主観的性格とその含意

  • 日常生活の世界は間主観的で、かつ文化の世界だよ。他人が一緒に生きているという意味で間主観的だし、日常世界の対象は意味を解釈してやらないかんという意味で文化の世界、記号の宇宙だよ。意味はその対象の歴史性、何のためにつくられたかがわからなわからんよ。
  • まずは、世界が間主観的であること、知識が社会化されたものであることから来る問題について考えるよ。

a)パースペクティヴの相互性

  • 常識的思考の自然的態度では、同じ対象を自分以外の人も知っている(か、いま知らなくても知りうる)と見なしているけど、他方で、今いる場所が違うのと、これまでの個人史が違う(ので有意性構造が違う)ので、その同じ対象が人によって異なって見えることもわかっているよ。
  • 居場所の違いは、場所を変えれば解消されるし(立ち位置の互換性)、個人史の違い(による有意性構造の違い)はそれ自体は有意でない(有意性体系の整合性)、という二つの理想化によって処理されているよ。
  • この二つの理想化(あわせて、パースペクティヴの相互性という一般テーゼ)で、この世界は自分が自明視しているだけでなくて「我々」が自明視しているものになるよ。

b)知識の社会的起源

  • 世界についての知識の大部分は人から教わるものだよ。その代表は日常言語の語彙と構文だよ。

c)知識の社会的分布

  • 人々が実際に持っている知識は人によってその内容も程度も違うよ。この違いは有意性構造の違い、ひいては個人史の違いに由来するよ。

3)社会的世界の構造と、常識的概念によるその類型化

  • 社会的世界には、「私」を中心に「我々」がいて、「我々」に対して「あなたたち」がいて、「あなたたち」に対して「彼ら」がいるよ。時間次元だと、「過去の人」、「現在の人」、「未来の人」がいるよ。
  • 現在の人で、空間も共有している(対面している)人を「共在者」(consociate)と呼ぶことにするよ。共在者同士の関係を「純粋な我々関係」と呼ぶよ。ここでは相手は個人として現れるよ。純粋な我々関係にない人間は類型で把握するよ。類型は匿名性が高いほど抽象的になるよ(つまり主観的な人格類型が、客観的な行為類型に置き換えられていくよ)。相互行為の相手を類型として捉えると、自分も類型として捉えることになるよ(相手が店員なら自分はお客さん、とか)。この類型は基本的に自明視されているよ。

4)行為類型と人格類型

a)行為、企図、動機

  • 行為というのは、「これをやったらどうなるだろう」と想像した上でする行動のことだよ。この結果像のことを企図というよ。
  • 行為結果を想像するときは過去の行為結果についての知識に基づいた行為類型を使うよ。でも本当は同じ行為なんかないわけだから、これは抽象化だよ。
  • 動機には原因動機(because motive)*1と目的動機(in-order-to motive)の二種類があるよ。原因動機が特定の企図の動機となり、その企図に含まれる目的動機が行為の動機となるよ。行為者自身は、行為の最中は目的動機しか見えないよ。原因動機は自己観察ではじめて見えてくるよ。

b)社会的相互行為

  • 「質問と回答」のような相互行為では、自分の目的動機が相手の原因動機になるという「動機の相互性の理想化」が前提になっているよ(自分の側での「インクがどこにあるか知りたい」という目的動機が、相手の「インクがどこにあるか教えてやろう」という目的動機の原因になる、ということが自明視されているということだよ)。
  • 行為の単位は、自分の究極的な目的動機で決まるよ。それを実現するまでの各段階はこの目的動機にとっての手段となるべき下位行為だよ。目的動機を知っているのは自分だけだから、行為の単位(どこからどこまでが一つの行為か)を知っているのも自分だけだよ。
  • 相互行為の相手は、自分に対して示された(下位)行為からわかることしかわからないよ(「インクはどこ?」と聞かれただけでは、何のためにインクを探しているのかまではわからないよ)。行為を理解するってことはその行為の行為者自身にとっての意味を知ることだけど、本人以外の人は確実には(蓋然的にしか)わからないよ。
  • 行為類型を動機類型に結びつけると人格類型ができるよ。共在者の人格類型は匿名性が低くて内容が濃いよ。共在者以外の人の人格類型は役割類型だよ。これは要するに自他間での類型的な目的動機と原因動機の相互結合を不変のものとして前提できるということだよ。

c)観察者

  • 相互行為に参加していない観察者は、(自分の)目的動機→(相手の)原因動機という変換関係に参加していないという点で、相互行為の相手とは異なるよ。でもやっぱり、行為の理解は蓋然的にしかできないので、この蓋然性を上げるための装置が必要だよ。科学的観察者である社会科学者が使うのは合理的行為モデルという装置だよ。

III. 常識的経験の内部での合理的行為

  • 他人の行為が既知の類型に合致しているとき、この行為は理解可能(sensible)な行為だ、というよ。これは感情的な反応でもいいよ(あんなことされたら俺でも怒るよ、みたいな)。
  • 行為が理解可能で、かつ何らかの基準で選択されたものなら、それは理由のある(reasonable)行為だ、というよ。ただし基準自体は自明視していても(選択されなくても)いいよ。
  • 目的も選択し、それを実現するための手段も、目的実現能力だけでなく引き起こしうる副次結果も含めてきちんと考えた上で選択した上での行為を、合理的な(rational)行為というよ。
  • この定義は、行為者の主観的観点に依拠したものなので、ある行為が合理的かどうかの判断が行為者自身と観察者とで食い違うということも出てくるよ。
  • 行為に理由があるかどうかの判断は、行為しようと決めた(企図を抱いた)時点での主観的観点(における選択の有無)を見て決めるものだから、行為開始時には理由があったのにあとから振り返ってみたらやっぱりなかった、ってことにはならないよ(選択を間違った!っていう判断は、理由がなかったってことを意味しないよ)。
  • 選択が合理的であるためには、選択時において、(a)自分の現状、(b)行為結果が自分の生き方の全体に対して及ぼす結果、(c)選べる手段にどんなのがどれだけあってどれを選ぶとどんな点でどんな影響があるか、といったことについてきちんと知っている必要があるよ。
  • これが、他人の協力を必要とする合理的相互行為になってくると、その相手についての知識もきちんとしていないといけないし、相手の側でもこの種の知識を持っていないといけないし、などなど、相互行為が合理的であるための条件というのは、自分だけの行為が合理的であるための条件と較べてはるかに大変だよ。
  • なのに、相互行為って結構うまくいってるよね。これは何でだろう。考えられるのは、一つには、相互行為に参加していることによる共同知識による説明、もう一つには、両者が所属する集団の共同規範とかによる説明。でもどちらにしても、すべてを検討しつくした上での選択という意味での合理性には程遠いよね(つまり自明性がいつも前提になっているよね)。
  • 結論としては、常識水準での合理性概念はこの種の自明性を逃れられず、この自明性の枠内でいろいろ検討するという意味での部分的な合理性でしかありえず、だから合理性には程度の差があるよ、っていうことになるね。
  • これに対して、合理性概念が完全な形で登場するのは社会科学による相互行為のモデル化の水準だよ。これがどんなものかを見るために、まずは社会科学ってどんなものか考えてみるよ。

IV. 社会科学が用いる思考対象の概念

1)主観的解釈の公準

  • 社会科学は人間の行為と、その常識的解釈を対象とせないかんよ。これは企図とか動機とか有意性とか概念とかの体系全体の分析が必要で、だから行為者自身の主観的観点に立ったものの見方が必要だよ。
  • 経済学とか、この公準に反しているように見えるけど、あれは仮定とかで主観的な要素を一定にしたりして言及を省略してるだけで、いざとなったら言及は可能だからあれはあれでいいんだよ。
  • でも行為者の個人的で主観的な意味を科学的に捉えるって、どうやったらいいんだろう。それに知識は客観的だから反証とか検証とかできるわけだけど、主観的な意味を客観的な知識にするってどうやったらできるんだろう。
  • 前者の、主観的な意味を科学的に捉えるって方は、相互行為を類型化した社会的世界のモデルを作って、それが科学的につくった人格類型にとって持つ意味を捉えるってやり方で可能だよ。後者の方は、特別な方法論的装置が必要だけどその前に、科学者が社会的世界に接する態度について考えるよ。

2)利害関心のない観察者としての社会科学者

  • 社会科学者も自然科学者と同じで、対象に対しては実践的な関心じゃなくて認知的な関心しか持たないよ(もちろん科学も社会的世界の一部だけど、そのことと科学者の態度とは別問題だよ)。
  • 科学的な観察者になろうとする人は、自分の個人史によってつくられた有意性構造から離れて、自分が選んだ科学的問題によって決まる有意性構造の中で概念をつくるよ。各概念には、それがどの問題を解決するためにつくられた概念なのかを表す添字がつくよ。

3)行為パターンの常識的概念化と科学的概念化の違い

  • 社会的世界の常識的概念化は、本人が社会的世界の中心(ここ)となって、本人の個人史に基づいて行われるよ。科学的概念化はこれと違って、自分の個人史は無視して、それまでの科学的蓄積を自明視した上で問題を立てて、それに基づいて行われるよ。

4)社会的世界の科学的モデル

  • 社会科学者はまず、観察に基づいて行為類型をつくるよ。で、この行為類型を引き起こすに足るだけの主観的性能(目的動機と原因動機)を備えた人格類型をつくるよ。この人格類型が持つ主観とか意識は、社会科学者が認めた性能しか持たないので、操り人形だよ。類型的行為の説明のために、社会科学者が類型的な動機を人形に詰め込んだだけだよ。社会的世界のモデルというのは要するに、社会科学者が監督を務める人形劇だよ。この人形劇では、実際の日常生活で合理性の完全な実現を邪魔していた様々な困難が存在しないので、合理性が完全な形で登場できるよ。

5)社会的世界の科学的モデル構築の公準

  • 社会科学の課題は、人間行為の主観的意味を客観的に扱い、かつ常識が用いる思考対象と適合する科学的思考対象をつくることだよ。で、そのために科学的方法が満たすべき公準が、次の三つだよ。

a)論理一貫性の公準

  • 科学的概念は最高度に明晰かつ判明で、形式論理の原理と両立しないといけないよ。これで思考対象の客観性が保証されるよ。

b)主観的解釈の公準

  • 観察された行為類型を説明しうるような性能を、人格類型の精神に帰属させないといけないよ。これで当該行為類型が当該人格類型にとって持つ主観的な意味によって当該行為類型を説明することができるようになるよ。

c)適合性の公準

  • 現実の社会的世界の行為者が、科学的概念が指示したとおりに行為した場合、それが社会的世界の人々によって理解可能であるようなモデルをつくらないといけないよ。これで、科学的概念化と常識的概念化の適合性が保証されるよ。

V. 合理的行為パターンの科学的モデル構築

  • 人間の行為について合理的に概念化することと、人間の合理的な行為を概念化することは違うよ。前者は要するに論理一貫性の公準に従うことで、概念化が合理的でないと科学じゃないよ。でも後者は科学であるための条件じゃないよ。じゃあ何なのか。
  • まず、合理性の公準というのは、生活世界で見られる行為類型について、それを遂行するような合理的人格類型をつくらなければいけないよ、ということ。つまり、その行為類型にとって有意と科学者が判断する要素のすべてについて明晰判明な知識を持ち、かつそれ以外の事柄については知識を持たず、かつそれらの要素によって定義される目的に対してつねに最適な手段を選択する、という性能を備えた人格類型だよ。
  • で、これがなんの役に立つのかというと、(1)全員が合理的に行動する社会的相互行為パターンを概念化して役割とか制度とかを一つの研究対象とすることができるよ。(2)合理的行動は予測可能だから、それを基準にして現実の行動を見ると何がどういう要因で逸脱するかを測ることができるよ。(3)組み込む要素をいじって複数のパターンを作って比較することができるよ。
  • 複数のパターンがつくれるのは、問題というのは内的地平を持っていてそれは複数とおりの表し方があるからだよ。

VI. 結語

  • モデルの世界にとって科学者は神様だよ。

*1:理由動機って変な訳語じゃないですか?