山口意友『正義を疑え!』

正義を疑え! (ちくま新書)

正義を疑え! (ちくま新書)

なーんか変な本だなあ。やばそうというか。

  • はじめに
  • 序章 争いと正義
  • 第一章 正義の源流
  • 第二章 平等主義の問題点

ああそっちの人なのか。アファーマティヴアクションは結果平等主義ですか、結果平等主義は共産主義ですかそうですか。

女子中学生がジェンダーフリーを根拠に、「ああ、クソしたい」「フザケンじゃねーぞ」「ブッ殺すぞぉ」等々、男顔負けの言葉を平気で使う世の中になったとして、それが男女平等を実現したまっとうな社会と言い得るだろうか?(p. 90)

この一言で本書の論調(と議論の水準)は推して知られるといえよう。

  • 第三章 庶民の正義

たとえば、水戸黄門では助さん・格さんが悪代官とその家来達をなで斬りにする。(p. 100)

ずいぶん物騒な水戸黄門ですね(印籠出す頃にはそこらへん血の海だな)。それはともかく、

「他者危害則」とは、一言でいえば、「他人への危害」を取り扱う倫理原則である。これは簡単に言うと、「自由な行為が許されるのは、他人に危害を与えない場合のみである」という原則で、「他人に危害を与えないかぎり、自分で決めた自由な行為が許される」というような「自己決定権」として示される事が多い。(p. 101)

この二つは全然違うということがわからないのかなこの人は。解釈として正しいのは後者で、もちろんこれは「『他人への危害』を取り扱う倫理原則」ではない。「他人に危害を与えない行為」の自由を保障する原理であり、(同じことだが)国家がそういう行為を禁止することを禁じる原理である。

大学で「倫理学」の講義を行う最初の時間、私は学生達に「善いこととは何か」について書かせることにしている。その際、「電車の席譲りやボランティア位であれば、小学生でも書くことが出来るぞ。小学生と君たち大学生がどれほど違うかを楽しみにしている」と一言いうだけで、学生は気合いが入ってくる。次の時間にコメントする際、学生達の意見を「小学生・中学生・高校生・大学生」のレベルにそれぞれ分けて説明する。(p. 103-104)

なかなかいいご趣味をお持ちです。具体的な行為を答えると小学生、相手が嫌がらない・喜ぶことと答えると中学生、それに自分の動機の純粋さが加わると高校生、その動機の自律性まで達すると大学生なんだって。

  • 第四章 愛と正義

だが、その彼女に彼氏がいたとして、それでもあえてアッシーをやろうとするその男を、人はどう評価するだろう? 通常、世間は彼のことを「捧げる心」を満たした「いい人」であるとともに、単に利用されておしまいの「阿呆」と見る。(中略)だが、それでも本人に「相手の役に立ちたい」という想いが強いとき、彼のアッシーという行為は「愛」の重みを持つ。(p. 138)

アッシー君……。ネタが古すぎませんか。それはともかく、捧げる心(=善)が勝つと「愛」、求める心(=悪)が勝つと「恋」なんだって。むふー。

  • 第五章 生命と正義

船が遭難し救命艇で数人が脱出できたものの、漂流中に一人死にまた一人死に、ついに二人だけが生き残った。水も食料も底をつき、最後の仲間もついに死んでしまった。(中略)我々は、生き残った最後の一人が次の瞬間どのように振る舞う場面を期待するだろうか?(中略)通常我々は人肉を喰らってまで生き残る道より、潔く死を受け入れる道をその人に選択して欲しいと願うのではないか。(p. 151-152)

そんなこと全然願いませんが。正直、この人の道徳的直観が広い賛同を得られるとはとても思えない。ところが本書の鍵概念は「まっとう」であり(それはまっとうな正義か、まっとうな愛か、としつこく問うている)、議論に納得できるための前提はこのまっとうさについての直観を著者と共有することなのだ。

  • 終章 道徳と正義

仮に、彼女の「自分らしく生きる」ような生き方を誰もが認め、社会が「異性愛強制社会」から「同性愛容認社会」に変わったとして、その次に来るのはどんな社会だろうか? 「愛し合っているのだから、親子間・兄妹間の近親相姦も認めよ、獣姦も認めよ」などとなったとしても不思議はない。(p. 192)

想像力が豊富というか貧困というか。ただ下品であることは確かだ。↓

ところが育児よりも銭に目がくらむ者は、「育児は親の義務である」という至極常識的な道徳を破壊しようとする。(p. 189)

 さて、著者はどんな正義も絶対ではないという正しい命題から、だから社会の正義とかいうなというちょっとあやしい命題に進み、代わりに自己の善の不完全性に対する内省をこそまっとうな正義と呼べ、という感じで、社会正義はやめて個人の生き方だけ考えろ、というメタ的な主題変更をしている。私の直観は著者の道徳的直観とはことごとく相容れないが、個人の善き生の形式的な条件としてはこういう克己的な構想には賛同する。自分はそう生きるべきだと思う。
 しかしでは、社会正義の方はどうしたらいいのか。著者は「社会正義」とは「「まっとうな社会」を造る」(p. 205)ことだといい、

「まっとうな正義」を有する人々が集まった社会こそが「まっとうな社会」と呼ぶに値する。(p. 204-205)

という。「まっとうな正義」とは上述のような克己的な正義のことである。社会正義の実現を図るためには、社会成員全員がこのような正義観に賛同して自己批判を実践しなければならないが、それはどうやったらできるのか。この点について著者は何もいっていない。こんなのは、悪い人がいないのがいい社会だよ、悪い人がいなくなればいいね、といっているのと同じであって、(著者に倣って採点すると)幼稚園レベルである。
 終章の最後には「(跋)」として次のようにある。

蛇足ながら、(中略)「正義を疑え!」というような戒めの言葉が己に向けられた時、こうした自己言及命題は、実は「嘘つきのパラドックス」に見られる如き背理を伴っている。(中略)/「まっとうな正義」をさらに「疑う」ことにより、「さらなるまっとうな正義」へと生あるかぎり前進していきたいものである。(p. 211)

この種の背理の本質は循環して前に進めないことにあるのだが、このことがよくわかっていらっしゃらないようだ。まさに蛇足である。

  • あとがき

「社会正義実現のためには、しかじかの法整備を一刻も早く実現すべきだ!」/結構なことである。だが、その「主語」はだれなのか? 「誰」が「どうやって」それを可能ならしめるのか。市民運動によって国に働きかけるのか? それとも国会ロビー活動か? それとも自分が政府審議会委員にでもなるのか? あるいはいっそのこと代議士になるのか? また、その制度案が国会審議で否決されたらどうするのか?/いずれをとっても、長い道のりである。では、その間はどうするのか?(p. 213-214)

といっておいて、

まっとうな社会を実現するには、まっとうな人を造る、これがまず第一にすべき事ではあるまいか。(p. 214)

とは。それは長い道のりではないのか、そもそもまっとうな人間ばかりからなる社会がこれまで存在したことがあるのか、と問いたいところだ……がもういいや。