盛山和夫『リベラリズムとは何か』

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理

ようやく検討開始。

  • 序章 「リベラリズムという思想」
  • I 「ロールズ『正義論』とはなにか」
  • 第1章 「多元的社会にとっての規範的な原理」
  • 第2章 「ロールズ『正義論』の衝撃」

アローの不可能性定理が功利主義の不可能性を示した、と位置づけられているが、これは間違いだろう。

この定理が意味しているのは、「人々の効用の大きさ(あるいはその順序)を基礎にして、いかなる社会状態が社会的な観点からみて望ましいものであるかを導き出すことは、もしも条件(a)〜(c)を前提にすれば、できない相談だ」ということである。
「効用」というのは、功利主義思想において幸福、快楽、善……などの用語で語られてきた諸概念を経済学において一括して表現するものであるが、基本的に「個人の主観的な利益」を表しているとみてよい。そうするとこの不可能性定理は、各個人の主観的な利益だけに基づいて社会の望ましさの概念を構想しようとしてきた功利主義のプロジェクトに「不可能」を宣告するものである。これは、きわめて深刻な事件であるといわざるをえない。(p. 55)

アローは効用指標を使っていないし、主観的な利益を社会的選択のデータとして用いることを拒んでいる(『社会的選択と個人的価値』の第二章第一節)。アローが使っているのは選好で、これは選択行動のあり方によって(客観主義的、行動主義的に)定義される。つまりアローの定理の意味は、主観的な利益を表す(基数的)効用を使わない場合、一定の倫理的要請を満たす社会的選択ルールが存在しないことを示しているわけだ。だから順番としては、功利主義が(個人間効用比較の不可能性とかのために)だめになったからアローの定理が出てきたのであって、アローの定理が功利主義の不可能性を示したわけではない。実際、個人の主観的利益を表す基数的効用を仮定すれば、不可能性定理が成り立たなくなることが、その後の社会的選択理論の展開によって証明されている。

  • 第3章 「契約論モデルと内省的均衡」

内省的均衡についての議論に混乱が見られる。内省的均衡というのは状態なのかプロセスなのかが、はっきりしていない(「内省的均衡へと至るプロセス」という言い方と、「内省的均衡とは〜のプロセスをさす」という言い方の二種類が併存している)。もちろん、正解は状態である。均衡というのは状態であって、均衡に至るまでのプロセスは均衡ではない(「均衡化」とでも呼ぶべき)。私見では「内省」的均衡よりも「反省」的均衡の方が訳語として望ましいと思うので、そう書く(なお「反照」的均衡は問題外)。
さて「反省的均衡」という言葉の意味を、ロールズは次のように解説している(が盛山は引用していない。なぜだろうか。)。

この状態を、私は反省的均衡と呼ぶ。なぜ均衡かというと、それは我々の原理と判断がこの状態でついに合致したからであり、なぜ反省的かというと、それはこの状態では我々は自分の判断がどのような原理に従っているか、その原理がどのような前提から導出されたものであるかを知っているからである。(A Theory of Justice, Rev. ed., p. 18)

判断というのは、ある社会制度(社会の基本構造)が正義に適うものであるかどうかの判断であり、反省的均衡においては、その判断がある一般的原理の適用であることが自覚され、かつその原理がいかなる根拠によって正当化されるかということも自覚されている。理論家がこの境地に至って初めて、(暫定的、仮説的にせよ)一つの理論が完成する。これがロールズの理論観であり、ここに至ったからこそ『正義の理論』が書かれたのである。換言すると、正義の「理論」とは、原初状態(と、そこから導出される正義原理)と個別事例における直観的判断の間の均衡状態を指す。それゆえ、この均衡に至るまでの、原初状態の設定と個別の直観的判断双方の微調整プロセスは、「理論」の外部にある。
ポイントは、均衡状態に至って初めて理論が成立するのであるから、理論は必ず均衡状態にあるということだ。そして均衡に至るプロセスは均衡状態ではないのであるから、理論がその種のプロセスの途中にあるということはありえない。ところが盛山は次のようにいう。

内省的均衡というものは、ロールズ自身のものを含む正義の理論そのものが、「われわれの規範的確信」や既存の道徳的諸規範とのあいだでたどるべきプロセスだ(p. 98)

このような言い方は、見てきたとおり間違っている。理論は均衡にあるが、均衡はプロセスではない。盛山が曖昧にしてしまっているのは、理論=均衡が暫定的であることと理論が均衡に至るプロセスにあること、あるいは、均衡が破れる可能性があることと均衡が破れていることの区別である。自分の理論=均衡の暫定性はロールズも認めるところである。しかし理論が暫定的だから、その理論は均衡に至るプロセスにあるといってしまうと、「均衡に達したので本を書きました(大意)」というロールズの言明が理解できなくなる。
また、

原初状態の設定も、いったん導きだされた正義の原理も、既存の道徳的概念や今あるわれわれの規範的確信などとともに内省のプロセスの中に投じられる。そこには、アプリオリなものは何もない。実際、ロールズ『正義論』の大部分を構成しているのは、功利主義や卓越主義や直観主義を批判しながら自らの理論を構築していくための考察を展開している議論であり、それはまさにこの内省的プロセスを実践しているものなのである。(p. 99)

この言い方も正しくない。「内省の(内省的)プロセス」という言葉遣いも、我々が先にロールズからの引用で確認した「反省(内省)的」という語の用法と合致していない。なにより、『正義の理論』の大部分が、本当に均衡に至るまでのプロセスを記しているのであれば、そこでは正義の二原理が功利主義に負けるシーンとかが出てこないとおかしい。『正義の理論』は、正義の二原理が功利主義その他のライバルに必ず勝つとわかったから書かれたのであり、そこに書かれてある対決はすべて勝敗があらかじめわかっている八百長試合である。それは理論が均衡にあることを証明する論述なのであって、均衡に至るプロセスを記しているわけではない。