初期ルーマンにおける「経験的研究と規範的研究の架橋」

第83回日本社会学会大会(@名古屋大学 11/6-7)のルーマン部会で報告しました。レジュメが足りなくなったそうで、大変申し訳ありません。以下にレジュメの全文を載せておきます。
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1. 問題

◯ ルーマン研究というと理論(システム理論)の研究が中心。
◯ しかし方法(等価機能主義)は? そして、方法と理論をつなぐ根本的な社会科学観は?

システム理論と機能的方法は、その背後に共通の考え方を持っている。(中略)両者を結び付けているのは次の共通仮定である。すなわち、人間の行動というものは、それを合理化する可能性という観点から解明し理解しなければならない。



「機能的方法とシステム理論」(Luhmann [1964] = [2005: 57])

◯ 合理性/合理化の概念こそが、統一的なルーマン解釈にとって鍵であるはず。
 

2. 『行政学の理論』(Luhmann [1966])という著書

◯ 『目的概念とシステム合理性』(Luhmann [1968] = [1999])の終章のタイトル「経験的研究と規範的研究の分離について」――この「分離」(Trennung)を、より強い「Schisma」という語で表現し、その克服こそを自らの社会科学構想の課題として明示的に設定したのが、『行政学の理論』。
◯ 論じられる内容は『目的概念…』と重複し、また『目的概念…』の方が詳細に論じている論点もあるが、『目的概念…』が目的プログラムという特定対象に限定したモノグラフであるのに対して、『行政学の理論』は、より一般的な、社会学・社会科学構想の概論となっている。
◯ そのため、ルーマンの全体構想の中で、合理性/合理化の占める中核的な意義がきわめて明瞭に論じられている。
 

3. 「行政」という困難

◯ ルーマンの立論上の癖として、まず学界の現状で生じている困難を指摘し、そこから、その困難を生み出している思考前提上の欠陥を剔出し、代替案を示す、という議論が多い。本書もその例。
◯ 本書で「困難」として挙げられるのは、「行政」(Verwaltung)を対象とする社会科学が、統一的な理論を欠き、多様なアプローチの乱立状況にあること。
◯ その原因として指摘されるのが、20世紀の社会科学を支配する「経験的研究と規範的研究の大分裂状態(Schisma)」。なお本書では、「経験的」は「記述的」「説明的」「事実的」とも言い換えられ、「規範的」は「指令的」「合理的」とも言い換えられる。
◯ なぜ両者の分裂が、統一的行政学理論の成立を妨げるのか? それは、「行政」という対象の根幹に、「事実的合理化」(faktische Rationalisierung)という契機があるから。「事実的」は経験的研究の管轄、「合理化」は規範的研究の管轄、と分かれていたのでは、そのような状況の中に、行政学の統一理論が成立する場はない。
◯ 逆に、統一理論が成立するには、「事実的合理化」を扱える理論モデルが必要。それは「大分裂」の克服を伴うはず。

事実的合理化を目指す、したがって経験的・説明的な問題設定と合理的・規範定立的な問題設定の両方を利用しなければならないシステム/環境理論のモデル



行政学の理論』(Luhmann [1966: 38])

 

4. ルーマンによる「架橋」(Überbrückung)の試み:経験的研究と規範的研究

◯ (例によって)本書においても、ルーマンの所論は十分明晰とは言えない。そこで、ある程度大胆に図式化してやる必要。
◯ 実は、本書の「架橋」は二つある。一つは、「システム合理性」による、経験的研究と規範的研究のあいだの架橋。もう一つは、「等価機能主義(比較法)」による、研究者と実践者のあいだの架橋(こちらについては本報告では扱わない)。
◯ まずは、システム理論を経験的研究として徹底(パーソンズの分析論的システム理論の否定)。
  → 後の「es gibt Systeme」。

経験的に生じる行為の現実に対する参照を保持するためには、「システム」という言葉は、事実的行為のシステムを指すのでなければならない。つまり、(中略)純粋な概念体系、とりわけ行政学の理論体系であってはならない。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 64])

◯ 次に、システム概念を非「存在論」化(=システムの同一性を、環境からの相対的独立性で定義)することで、「規範性」を対象領域に確保。

行為システム(中略)とは、最高度に複雑で制御不能で多様で激動する環境に対して、相対的な単純性と定常性を保持する、行為の意味連関の同一性である。(中略)[システムの同一性維持の]基礎になるのはシステム構造である。システム構造は一般化した期待でできている。(中略)この意味で、行為システムの構造は必ず、規範的に制度化している。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 65-66])

◯ この意味での「規範性」から、システム理論的な合理化の基準(合理性概念)へ。

近年のシステム理論では、システム/環境関係を中心として、そこからシステム形成の問題性と、システム形成が成功したと言えるための基準、つまり合理化の基準を概念化する道が開けてきている。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 65])

◯ 環境相対的なシステム同一性の概念化から、システム相対的な(理論があらかじめ決めておけない)合理性基準へ。解決不可能な環境の問題を、システム内で解決可能な問題へと単純化=合理化。

システムが合理的であるとは、自らの存続を保障するような形に問題を定式化し、解決することができることをいう。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 92])

◯ 経験的研究/規範的研究の分断を、解決不能な問題/解決可能な問題の区別に応じて、システム理論/決定工学(Systemtheorie/Entscheidungstechnologie)の連携へと読み替え。決定工学には対象システムが採用している決定プログラムのあり方によって、法学(法文解釈学)、経済学(意思決定理論)、コンピュータ論理が挙げられている。

本書が扱っているシステムは、現実世界に存在する行為システムであり、このシステムが問題を解決するというときに意味しているのは、その問題がなくなってしまうということではありえない。(中略)解決可能な問題は問題ではないのである。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 93])

問題が縮小されると、この縮小された問題が、今度はさまざまな決定の計算モデルの始点を提供してくれる。(中略)それらにとっては、問題というのは頭で考えて解決可能なものであり、それゆえ問題というのは未熟者の頭の中に一時的に存在するものにすぎない、というのが前提になる。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 101])

システム理論的な学問と決定工学的な学問、その違いは、この相反する問題概念にこそある(中略)この区別は、学際的な共同作業に対して、記述的な学問と指令的な学問のあいだの「橋渡しできない」対立に較べて、はるかに有意義な前提を与えてくれる。この区別はその対立にとって代わるべきものである。この区別が勧めるのは、システム問題をモデル問題に変換する規則を見つけ、その変換を理解可能な観点のもとにおこうということだ。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 101-102])

◯ システム理論による決定工学(決定モデル)のチェックという非対称関係。

システム理論は、計算モデルが与える「唯一の正解」を、行為の暫定的な基礎として受け入れるのはそのとおりであるが、他方で、自らの「本来の」問題に対する解決としては認めない。本来の問題はあくまでも問題として保持し、それに照らして、特殊な問題解決言語とそれが与える解が本当に適切なものであるのかをチェックするのだ。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 102])

 

5. 「最初の決定」と「事実の規範性」

◯ システムの成立は「決定」による。これは、システムの同一性を、環境からの相対的独立性として非存在論化したことの(つまり複雑性の縮減という作用(Leistung)の結果と捉えたことの)論理的帰結。ところで、ある決定は、それが決定であるがゆえに別の決定可能性があり、それゆえ変更が可能である。では、システムの内部で、そのシステムを成立させた「最初の決定」(erste Entscheidung)を変更することができるか。←原理的にはできる。しかし、実際には無理。

どんな決定も、システム内の個別の決定でしかありえないのであるから、決定に際しては、システムそれ自体は、その問題解決の枠組として前提され、それ自体は問題視されてはならない。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 115])

◯ ということは、システム理論は、特定の対象を研究したり分析したり合理性を判断しているときには、その対象の「最初の決定」に縛られることになる。「システムの先行決定を理論それ自身の前提として受け入れなければならない」(116頁)。「事実(的なもの)の規範性」(Normativität des Faktischen)を尊重しなければならない。
◯ 他方、システム理論それ自身は、特定の「決定」に縛られることはない。それは、システム参照の選択の自由によって保障される。しかし、参照先を上位システムに替えて、下位システムの「最初の決定」を変更する際には、それによって生じる派生問題を考慮しなければならない。

研究対象である行政の問題決定に不満がある場合には、より根本的な問題へと遡っていくことで、その不満を表明することができる。ただしその場合には、それに応じて派生問題の複雑性も増大するので、それを考慮し処理することができなくてはならない。それができてはじめて、理論による実践への貢献は現実的な有効性を得ることになる。それができないかぎりは、行政行為がおこなわれている現実がいかに複雑であるかの理解は得られないまま、理論家が自分のことを実践家よりも賢いと思っているという印象が生まれるだけである。



行政学の理論』(Luhmann [1966: 117])

 

6. 要約と展望

(1) 「架橋」は、システム/環境理論によって対象世界に「規範」の居場所を与え、存立問題→モデル問題(解決不能問題→解決可能問題)の単純化性能をシステムに設定することで、「規範的研究」として行われている学問活動に、単純化した問題に対する正解を与える「決定工学」としての意義を与え、システム理論が上位からそれをチェックするという非対称関係を設定する、というかたちで試みられた。

(2) 決定工学はモデル問題を扱い、システム理論は存立問題を扱う。「システム合理性」は後者から前者への変換の合理性として定義され、システム理論が決定工学とそれが扱う問題のあり方を評価するための概念としてつくられている。

(3) システム合理性は各システムに相対的に定義されるために、システム理論による評価も、各システムのありかた(最初の決定)に拘束される。他方、システム理論は参照システムを変える自由を行使することで、特定のシステムの拘束からは逃れられる。

(4) 初期ルーマンの仕事を、この「架橋」論でどこまで統一的に整理できるか。後期になると、「架橋」論は明示的な目標としては設定されなくなるが、後期をも含めた統一的再構成は可能か。

(5) 近年の「公共社会学」的関心に対して、初期ルーマンの「架橋」論がどこまで有効か。どこかで破綻するとしたら、それはどこか。どの程度の貢献ができるのか。
 

文献

Luhmann, Niklas, 1966, Theorie der Verwaltungswissenschaft: Bestandsaufnahme und Entwurf, Grote
Luhmann, Niklas, 1999 (1968→1973), Zweckbegriff und Systemrationalität: Über die Funktion von Zwecken in sozialen Systemen, 6th ed., Suhrkamp
Luhmann, Niklas, 2005 (1970), Soziologische Aufklärung 1: Aufsätze zur Theorie sozialer Systeme, 7th ed., VS Verlag
三谷武司,近刊,「機能分析とシステム合理性――公共社会学的観点からのルーマン研究のために」,盛山和夫上野千鶴子武川正吾(編),『グローバル多元社会の公共性――公共社会学の視座I』(仮),東京大学出版会

「ロリコンのヨーコ」における「ロリコン」とは?

これは手塚治虫の『七色いんこ』の一場面です。七色いんこ(左)は泥棒なので、刑事の千里万里子さん(中央)いつもつけまわされています。というか、この刑事さんはいんこが好きなんですね。さて上のシーンで、刑事さんは、ホステスになっていた元の子分(右)から、高校時代スケバンだったことをばらされてしまいます。
で、その子分の名前が、「ロリコンのヨーコ」!
しかしここでいう「ロリコン」が、成熟した女性ではなく未成熟な少女を対象とする異常性欲、といった現在通常の意味であるようには思えません。そんなの、不良の名乗る称号じゃないですよね。では、いったいこの「ロリコン」の語用にはどんなニュアンスがあるのか、そのへんが知りたくて夜も寝られないのです。
さて、夜も寝られないのです、というのは嘘ですが、もしおわかりになる方がいらっしゃたら教えていただけると幸いです。
七色いんこ(3) (手塚治虫漫画全集)

七色いんこ(3) (手塚治虫漫画全集)

おっ、おにいちゃん・・・

小学校の学級文庫に、担任の先生がもってきた『男一匹ガキ大将』が全巻そろっていて、男子も女子もむさぼるように読んだのは、もう20年以上前の話なんですね。まじか・・・
しかし、先生はこんなもん読ませてどうしようというつもりだったのでしょうかw

2010年10月28日



2010年10月27日のツイート

人文総合演習B 第4回 福井健策『著作権の世紀』

著作権の世紀 ――変わる「情報の独占制度」 (集英社新書)

著作権の世紀 ――変わる「情報の独占制度」 (集英社新書)

何かの「権利」を保護するかどうか、またどのように保護するか、について議論するときは、少なくとも次の二つを区別しておく必要があります。つまり、その権利自体が大切だから保護するのか、それとも、別の大切なものを守るのにその権利を保護することが有効だから保護するのか、の二つの立場です。
その権利自体が大切だ、というふうに考えるのであれば、いかにその権利が大切なものであるのかを、議論相手の道徳的直観に訴えるように論じるのが基本になるでしょう。生きる権利とかそうですよね。
他方で、他に大切なものがあって、それを保護したり促進するのに、ある種の人にある種の権利を付与することが有効である、というふうに考えるのであれば、議論をいくつかの段階に分ける必要があります。議論は目的/手段図式で構成され、権利の保護は、何らかの目的を達成するための手段、という位置づけになります。
そこで、論点としては、権利を保護することによって達成されるべき目的とは何か、なぜそれが目的として設定されるべきなのか、どういうことが起こったらその目的が達成されたと言えるのか、その目的以外の大切なもの(他の権利とか)との兼ね合いをどうするか、その目的を達成するのにその権利付与のありかたが手段として有効かどうか、もっと有効な手段はないのか、権利を定めた時点からの時代変化によって、目的設定の観念に見直しをかける必要はないか、といったことが出てくるでしょう。
さて、こういう原理的な議論をするときは、既存の法律に縛られる必要はありませんが、とりあえず著作権法をみると、その目的は「文化の発展に寄与すること」と書いてあり、また報告者・コメンテータもこの路線で考えていたように思います。
となると、「文化」とはなんなのか、それが「発展」するとはどういうことなのか、なぜ「文化の発展」が大切なのか、「文化の発展」に優るとも劣らないくらい大切な他の権利や目的はないのか、あったらその兼ね合いをどうするのか、といったことを考える必要が出てきます。
また、著作者に著作物の複製や公衆送信の権利を「専有」させることが、達成すべき「文化の発展」とどのような筋道でリンクすることになるのか、「専有」させないことによって発展する文化というのもあるのではないか(二次創作の話とかそうですよね)、となると再び文化論に戻って、発展すべき文化と発展すべきとまではいえない文化のあいだに区別があるのかないのか、みたいな感じで、各論点について考えていくことが、すでに考えた論点についての再考を迫るといったループも生じてきますね。
レジュメおよび演習での議論は、これら(本来は論理的に相互に結びついている)様々な論点が、ある面では渾然一体となっていたり、ある面では表面的にのみ扱われていたり、といった事情のために、どうしても隔靴掻痒感が否めませんでした。これは、まあ、初年度としては当たり前のことですし、その感覚を体験してもらうことが演習の目的でもあります。うまくいかなさの体験がなければ、「形式」を学んだときの利得も少ないものです。
ああ、またしても長くなりすぎているのでこのくらいに。
 
以下、レスポンスカードより。

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