James Cameron監督『Avatar』(邦題:アバター)

2009年の米国映画。以下、ネタバレしてます。
六本木ヒルズはTOHOシネマズで観賞。
これは要するに、ネトゲ廃人万歳! という映画なんだな。あるいは(3-Dなのに!)二次元万歳というか。
主人公のJakeは半身不随で車椅子生活の海兵隊員。直接には描かれていないが、性的にも不能なのだろう。ところがavatarになると、身長3mでものすごい身体能力を得て、広大なPandoraの世界を跳び回ることができる。しかもかわいい彼女と、セックスを含んだロマンスをも育む。さらにさらに、マレビトとしてPandora世界の英雄にもなれる。翼竜みたいなのに乗って空を飛び回れる。うわーこの世界最高じゃん?
もちろん、Naviたちの宗教的世界観を無視して開発と侵略を進める地球人どもは、悪い奴であることは確か。米国の白人がインディアンに対して行った狼藉に対する反省だと言っても、まあ別に構わない。ただ、それだと、安易なプロットに対する安易な解釈にしかならない。
最後のシーンでJakeは、Naviの秘儀(?)によって、人間の身体を捨ててavatarに完全同一化する。この映画がダメなのは、そこで「選択」がきちんと描かれていないことだ。つまり、Naviとなり地球人でなくなることによって、何を失うことになるのかが不明で、Jakeの境遇を考えると、最初からNavi一択にしか見えない。それは、Naviの生活の詳細がほとんど描かれないことによる。修行と儀式と戦闘しか出てこない。唯一出てくるのが性愛のシーンだが、セックスをどうやってするのかはまったく描かれない上に、まず見つめ合い、キスをして、優しく押し倒す、という、地球文化、というか米国文化の様式そのままである。作り手たちは文化的侵略ということの本当の意味がわかっていないのだろう。
まあそれはともかく、生活の詳細という点で致命的に不明なのは、こいつらは何を喰ってるのか、それは美味いのか、ということが全然わからない点。Naviの人たちは老若男女が、無駄な贅肉のない、ものすごくいいカラダをしている。ということは、結構食事は節制なのかもしれない。食事の楽しみは諦めた方がいいかも。睡眠はオープンスペースでのハンモックであり、ということは気候的にはかなりいいのだろうが、完全な共同生活で、プライヴァシー的なものはおそらくほとんどない。
こういった、ほんとに魅力的なのかどうかよくわからない世界をJakeに選択させる背景的設定が、要するに地球人のJakeの生活には何もいいことがない、というマイナスの描き方である。半身不随だし、たぶん性的不能だし、まわりは悪い奴らばかりだし、ということで、じゃあNaviの方がいいよね! というだけの話だ。生身のJakeはハンサムなのだが、もしこれがデブでキモオタ的面相の役者だったら、もっとCameronの真のメッセージが直接に伝わり、また話に深みも出たことだろう。不細工なJakeの本体を見つけたときのNeytiriの反応とか見てみたかった。
最後に3-Dの話を。さすがに奥行き感はすごいなと思ったが、メガネを欠けている分、どうしても画面が暗すぎる。Pandora世界がそういう気候なのか、メガネの負の効果なのかが判断できない。抜けるような青空というのは3-Dでは表現できないのだろうか。
それから、臨場感、つまり観客自身がその世界に入ってしまっているような感覚というのが、3-D技術だけで達成できると作り手たちが考えているのだとしたら、早く気づいてほしい。我々は、ファミコン時代のドット絵だろうが、デフォルメされた漫画だろうが、設定とプロットがきちんとできていれば没入できることをすでに知っている。他方、それらがきちんとできていない限り、どんだけ金と人と時間をかけてヴァーチャル空間を作っても、まったく没入できない。そのことを、『Avatar』は証明してしまっている。この作品が、技術的画期として映画史に残るのは確かだが、おそらく名前は知っているが誰も観たことがない、歴史的資料のごときものにしかならないだろう。