Pete Docter, Bob Peterson監督『Up』(邦題:カールじいさんの空飛ぶ家)

2009年の米国映画。以下、ネタバレします。
六本木ヒルズはTOHOシネマズにて、3-Dで観た。3-Dって初めて。なんか眼鏡をかけるんだけど、あのね、この眼鏡してるとね、涙が拭けません! 最初の10分間、涙が止まらず、そのあともスイッチ入っちゃって、Ellieのスクラップブックが出てくるたびに泣いてしまうんだけど、これには絶対あの眼鏡も一役買っているはず。鼻の下、口のところまで流れてきたのを、周りに気付かれないようにぬぐうので精一杯。眼鏡の中は湿度100%ですよ、これもうほんまに。
中盤、犬が出てくるあたりが、他愛もない、だけどほんとにツボを押さえたギャグの連発で、すごい楽しく笑えるのだけど、正直、ここで休ませてもらえなかったら、もうしゃくりあげてたかもしれない。もちろんそのあとも、泣ける、というか泣かずにはいられないシーンがたくさんあって、たとえばRussellの成長を顕著に示すシーン。つまりはできなかったことができるようになるシーン。まずできないときのシーン、まあこれが後の成長の伏線になるわけだけど、これがまたちょっとしたギャグで笑えるシーンで、ともかくこの時点で、ああ、これはあとでできるようになるんだろうな、と予測していたにもかかわらず、クライマックス、できるようになったとこで涙腺崩壊。
それからさっきも言ったとおり、スクラップブックが出てくるたびに涙が流れ、さらにこれから述べる、本作のメインテーマが成就するところ、それからそのあとの痛快アクションで、もう作り手の心意気にまで感動して、世の中にはこんなに真面目に物事を考えている人たちがいて、そういう人たちの能力と努力が最大限に発揮されて、こんな素晴らしい作品ができるんだ! と思ってまた号泣、という感じで、もうほんとにこれは。
主題の話をすると、これは老先短いじいさんの、しかし成長物語だ。本作を観て、本当に優れた成長物語というのは、観客も一緒に成長させてくれるものなんだ、と学んだ。
物語の序盤、長年連れ添ったEllieが死に、思い出の詰まった家の周りはビル建設で全員立ち退き、Carlじいさんがだけがひとり、頑固に居残っている状況。そんなある日、工事の作業員の不注意で、二人で作った大切な郵便受けが壊れてしまう。激昂したCarlは、作業員に暴力を振るい、流血沙汰に。この流血シーンが、また、ちょっとびっくりするくらいリアルで、観ててちょっと引いてしまうほど。実のところ、これは素晴らしい演出で、観客は、ああ、もうこのじいさんはここでは生きていけないんだな、と諦念を覚えることになる。「ここ」というのは、もちろん「この世」のことだ。実際、Carlは裁判で有罪となり、老人ホーム送りの運命が待ち構えている。
Carlは、迎えに来たホームの人を待たせている間に、夜のうちに仕込んでおいた1万個のヘリウム風船を煙突から空に放ち、その浮力で家ごと離陸する。ホームの人が玄関に向かい、じいさんが待ってろといい、ホームの人が玄関から門のところに戻るシーンで、初めて庭じゅうにヘリウムのボンベが転がっているのが映る。観客は胸はここで期待に膨らみ、そしてカラフルな無数の風船とともに家が飛び立つのを観て、カタルシスに浸る。やったなじいさん! また涙が滂沱と流れる。しかし、これは「成仏」の感動だ。
この時点で観客は、物語の推移を次のように予想している。おそらく、Carlじいさんは、このあと、いくつかの町や村に立ち寄り、いくつかの事件と感動を積み重ねた上で、最終的にEllieとの約束の場所、パラダイスフォールに到達するのだろう、と。到達したとき、自分はきっと号泣してしまうだろう、と。もちろん、それは「成仏」の涙にほかならない。
ところが、この予想(というよりもむしろ強い期待)は、すぐに裏切られることになる。空中で起こる事件といえば、Russellの闖入と、お決まりの暴風雨だけだ。大気が落ち着いたとき、なんと家はすでに目的地の目の前にまで来ている。ここから、犬や鳥が登場し、ギャグとアクションが始まるので、なかなか気づかれにくいが、物語の構成上、すでに「成仏」の感動は作品の主題ではありえなくなっている。
犬や鳥、そして憧れの冒険家Muntz。その状況が、直接にはRussellが、Carlを新たな冒険へと誘う。しかしCarlにとっての「冒険」とは、パラダイスフォールの上に自宅(=Ellieの分身)を連れて行くことと固定されていて動かない。そこが自分たちの墓となるべき、成仏の場所であり、Ellieの待っている場所なのだ。だからCarlは、Russellや鳥や犬やを横目に、ひたすら家を引っ張っていく。そしてついに目的地に到着。
幼少の頃からの、そして妻とともに追い求めてきた夢が叶った瞬間! しかしそこでCarlを待っていたのは、これ以上ないほどの虚しさ。孤独。すべてが沈黙し、生命を失った状態。なぜだ・・・
Ellieを求めて、Carlはスクラップブックを開く。そして、今まで最後だと思っていたページの先に、まだ続きのページがあることに気づく。そこで見るEllieからのメッセージ。本当の冒険とは何か、それをCarlは初めて知る。そして今まさに、自分が冒険から逃げ出していることを、今しなければならないことを知る。
ここに到って、Carlは人生の、観客は映画の、それぞれ目的を再構築する。生まれ変わる。この映画は、真の冒険に気づくことによる老人の成長物語なのだ。成仏によるカタルシスなどよりも、遥かに大きな感動を観客は得る。生まれ変わったCarlは、『ラピュタ』のパズー並の、大痛快空中活劇の主人公になれる。なぜなら今こそ彼は真の冒険家となったからだ。このフィジカルな変化は、ご都合主義などでは断じてない。物語上の必然である。
というわけで、とりわけ終盤のスクラップブックの中にEllieを見出すあたりは、テクスト的に思い出しただけで涙が溢れてくる。そして、自分の人生を見つめ直さざるを得なくなる。本当の冒険に、自分は真摯に立ち向かっているだろうか。本当の冒険物語とは成長物語であり、本当の成長物語は観客の成長をも促さずにはおれないものだと強く思う。

追記

福本次郎という人が言うには、

いくら年をとっても未来に目を向けている限り人生は有意義なものであり続けることをこの映画は教えてくれる。ただ、それはカールほどの元気があればの話で、たいていは加齢とともに体力も衰え気力を無くしていく現実をこの作品はもう少し考慮すべきだろう。。。

これ、真面目に言ってるにせよ、笑いをとろうとしているにせよ、もうアレすぎて言葉がない。
また小梶勝男という人曰く、

センチメンタリズムからアクションへ、という流れは自然で、泣けて笑える良作だと思うが、物足りなさも残る。カールじいさんの妻への思いが後半、どんどん希薄になっていく感じがあるのだ。そういうものかなあ、と思ってしまった。

こんなに映画を観れてない人が評論をしているという現実に絶望する。なにが「そういうものかなあ」だ。「通」とか言ってて恥ずかしくないの?