森口朗『いじめの構造』

いじめの構造 (新潮新書)

いじめの構造 (新潮新書)

加害者を処罰せよという基本的なスタンスには完全に同意。そのうえでいうと、そのためには「いじめ」という用語を廃止すべきだと思う。「いじめられる」人は「いじめられる」べき原因をもっており、またそれもあって「いじめられる」ということそれ自体が、本人が認めたくない屈辱だから。本書の言葉を使うと、「いじめられる」ということはスクールカーストを著しく下げるし、それは不可逆だと本人に期待される。それが「いじめ」という言葉の文法なのであって、異論は認めない。「いじめ」は「いじめる」側と「いじめられる」側の関係の病理として問題を捉えようとする用語法であり、おそらくは本書の対策の方向性を阻碍する要因になっているだろう。
だから「いじめ」問題といった言い方はやめて、「他人の嫌がることをして喜ぶ下劣な生徒が存在するという問題」(下劣生徒問題)などというべきだろう。痴漢とか各種ハラスメントでも、問題視されているのは加害者だけだ。「いじめ」だけが、被害者までもが問題の中に引きずり込まれる。「いじめ」問題が論じられたり、対策が立てられたり、「解決」されたりすることは、被害者にとってははっきり言ってほとんど二次被害のようなものだ。

ほんとどうでもいいツッコミを一つ。

2n(n+1)/n2という式でnが3にどんどん近づいていった時の答えは誰でも出せます。nに3を代入すればよいのです。では、nが無限に大きくなっていったら答えはどうなりますか。
分母も分子も無限に大きくなるから答えは1? そう単純にはいきません。
このように、具体的な数字ならいとも簡単な式が、無限概念を扱うと途端に混乱するのです。(p. 174)

いやそれはふつうに2だろ。2+2/nなんだから。もっと難しい例を出さないと・・・