若桑みどり『お姫様とジェンダー』

非常勤の行き帰りで。まあ一言でいうと駄本。なんで学生のレポートをいちいち読まされないかんのかとか、家父長制とか男性中心なんとかとかの概念があまりにも紋切り型で無内容とか、アニメである必然性がないとか、アニメの中でも何でディズニー?とか、章ごとの(=作品ごとの)論点の違いが何もないとか、単なる自分の大学の宣伝じゃねーか、といったことはさておいたとしても。
自分の教えた学生をほめたいという気持ちはよく分かる。私も、このブログの人文総合演習の記録では、たぶん他の人がみたら気持ち悪いと思うくらいほめている。ただそれは実際にほめられるような努力をしたからで、また一年生という条件下で私の期待を上回るような〈形式的な〉成果を出したからだ。形式的な成果というのは、要するに、自分にとっても発見で、対象文献を読んできた他の出席者にとっても発見であるようなこと(つまり文献を読んだだけではわからないようなこと)を報告しろ、という要求にこたえたということだが、もちろんそれがこの世界にとって新しい知の生産という意味での真の発見である必然性はないし、実際にそこまでの報告はない(演習では、そういう真の発見こそが学者の仕事であり、大学生の仕事はその「真似事」をすることだと繰り返し言っている)。だからそこはほめないし、本にして世界に発信するなんて考えもつかない。恥ずかしい思いをするのは学生自身だろう。
他方、学生をほめるということは、教えた自分を自慢するということでもある。私が演習のエントリを書いているのも、基本的には自慢である(自分の報告について世界に発信されることで学生が自覚を高めるのではないかという気持ちも多少ある)。この本の著者も、自分のジェンダー教育のおかげで、こんなにジェンダーコンシャスな学生が育ちましたよすごいでしょ、と自慢しているわけだ。
正直言うと、本書のもとになった講義は80年代に行われたのかと思った。実際は2001年度だったのだが、それくらい、学生の感想は古臭い紋切り型に満ちている。著者が講義でどんなことを言ったのかが大体透けて見える。私なら、こんな陳腐なレポートを延々読まされたら辟易するだろう(実際本書を読んで辟易した)。なんでこんなんで自慢できるのかと思う。自分の劣化コピーを生みだしてうれしいか? (そういうレポートを読まされるくらい苦痛なことはない、という主旨のことを上野先生がよく言っていたが、ほんとにそうだと私も思う。)
むかついて言葉があらくなってきたのでもうやめよう・・・あ、でもあと一つだけ。本書で著者は、若い女の子はディズニー映画というかお姫様話の刷り込みのせいで、白馬の王子様を待つだけの人間になってしまっている(が、自分の講義で目が覚めてよかった)と書いているけど、それ本気? 21世紀だぞ? だめ押しにもう一つ、学生は教員の価値観を察知してそれに合致するようなレポートを書くものだ(ダメな学生ほどそうだ)、という可能性は考慮したのかと。