諏訪哲二『なぜ勉強させるのか?』

なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

まあなんというか、一流大学の勉強好きな学部生が哲学とか「近代」について論じた本とかを読んで考察した、みたいな実効性のない思弁本。
この著者に限らないが、勉強すべき理由を、あまりにも高尚に捉えすぎる議論(知る喜びとか)は間違っている。なぜかというと、しないといけない「勉強」というのは、大学に合格するための勉強以外ではありえないから。いくら知的興奮を覚えたとしても、高校生が、プラトンギリシャ語で読もうとしたり、大学レベルの数学にチャレンジしたり、小説や評論を読みあさったり、一日中映画を観たり、といった勉強は〈してはならない〉。しなければならないのは大学入試に役立つ勉強であり、「なぜ」と聞かれているのもこの種の勉強なのだ。ならば聞かれているのは、なぜ大学に行かないといけないのかということであり、これに対しては福澤諭吉的な、やっぱり人の上に立つのは大卒だ!くらいしか有効な回答がないだろうと思う(そしてそれは大学教育の存在意義として間違っていないだろう)。
大学生になれば、誰も「勉強しろ」なんていわないので、「なぜ」ともきかれないだろうが、教師の側としては、勉強したら何が楽しいか、は「自分にとって」という但し書き付きである程度語れるだろう。
以下、どうでもいい話。

前著(中略)において、この子ども・若者たちの「農業社会的」あり方や「産業社会的」姿、そして「消費社会的」現れ方について掘り下げたところ、その反響は結構大きかった。みんな「近代」はいつでもどこでも一律的な空間だと思い込んでいるのである。子どもが時代と共に変化しているとか、西欧的な「近代」と東アジア的な「近代」の現れ方に差があるなどと思っていた人はあまりいないらしい。ましてや、戦後日本の六十年ほどの短い期間を三つに区分するなどということは考えもしなかったというのである。日本の「近代」が日本的構造を持つこと、生産力や社会構造によって子ども(若者)たちのありようが変革することは考えてみれば当然のことだが、「進んだ西洋」と「遅れた日本」の二項対立しか頭になかった日本の戦後インテリ(知識人)には「コロンブスの卵」のような衝撃を与えたらしい。(p. 45)

えええーっ!?
そんないかにも紋切り型の時代区分を「コロンブスの卵」とか・・・

藤原校長の〈学校って生活指導という部分が絶対に欠かせない。学習に向かう態度みたいなものをきちっとさせたうえでないと、基礎学力も応用力もつかない〉というコペルニクス的転回も“地動説”(学校は知識を売り買いするところ)絶対の福井氏、戸田氏にはまったく届かない。(p. 107)

そこ間違えたらいかんでしょ。