赤川学『性への自由/性からの自由――ポルノグラフィの歴史社会学』

ポルノグラフィに、「マスターベーションに必要な想像をかきたてるために利用される表現物」という定義が与えられており、それと矛盾すると断ったうえで、「ポルノグラフィとは、人々がポルノグラフィと呼んでいるもののことである」という定義も載っている(著者は後者をトートロジーだと言っているが、そんなことはないと思う)。
さて、世の中には、「マスターベーションに必要な想像をかきたてるために利用される表現物」であって、しかし「人々がポルノグラフィと呼んでいないもの」がたくさんあり、その中には、そう呼んでいないこと自体が「マスターベーションに必要な想像をかきたてる」性能を与えているものが少なくないし、さらには作り手(の少なくとも一部)がそのことを自覚していたりすることもあるだろう。
そういうのはどう扱ったらいいのかな。体験談的に、「〜は(実は/自分にとって)ポルノだ」と新しくポルノ言説を生み出すしかないのかな。