高橋哲哉『靖国問題』

靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)

最近風呂に入ってなかった(シャワーという意味)ので進んでいなかった風呂読書再び。
個人的には、首相の参拝などというのは必ず国際的な政治問題を起こすのだから、そうやって騒ぎを起こしておいてどの面下げて参拝できるのかと常々思っており、本当に御霊の平安を想うのであれば首相任期中は参拝を自粛し、いつか来たるべき首相参拝が問題を引き起こさない国際関係を実現すべく努力すべきだろうと思う(条件文なのでそこんとこよろしく)。
さて高橋の解決案、政教分離の上で、遺族の合祀取り下げ請求に応じろ、というのは、特に後者についてどうかと思う。ある死者が神様になるかならないかは、遺族の信仰ないし感情を特権的に重視して決まる、というのはそれ自体特殊な宗教的立場に基づいた命題だろう。

それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を、自らの[=靖国神社の]信教の自由の名の下に侵害することは許されない。(p. 235)

この文だが、ちょっと何を言っているのかわからない。靖国神社が祀ると、靖国神社の祭祀を認めない人がそれぞれの仕方で追悼することが不可能になる、ということが言いたいのだろうか。だとしたらそれは間違っている。特にこの議論は「政教分離を徹底」した上でのことなのだからなおさらそうだ。侵害されるとされる「遺族の権利」という部分が、本来は「遺族の感情」と書かれるべきなのだろう(「〜したい」というのは権利という言葉にくっつくのか?)。だとすると、感情が害されるくらいのことで信教の自由が制限されないといけないのか、という話になって、議論は自明ではなくなる。
また「近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観」が「自由な言論によって克服されるべきである」というのもよくわからない。「克服されるべき」と結論が決まっているのに「自由な言論」とは?
日本が戦争ないし武力行使をする可能性がある以上、どんな国立追悼施設をつくってもそれが「第二の靖国」になりうる可能性を否定できないので、まずは「脱軍事化に向けた不断の努力が必要」というのも、それはまあ無理なのであれですねというのと、「なりうる」というだけで最初から全否定するのはいかがかと思う。現在靖国を批判しているように、なってから批判すればいいし、ならないようにする追加的な方策を考えるという道もあるだろう。もちろん国が死者追悼に関わること自体を全面的に否定するならそれはそれでありだが、それなら不戦とか言い出す必要もなくなってくるわけで。