北村文・阿部真大『合コンの社会学』

合コンの社会学 (光文社新書)

合コンの社会学 (光文社新書)

ようやく読むことができた。
うーん、ちょっと話を広げすぎではあるまいか。合コンという相互行為の場を支配する構造的制約と、その中で展開される参加者たちの戦略的駆け引きに特化して記述した方が面白かったと思う。主なデータはインタビューなのだが、それは本書の研究にとって最適な方法だったのか疑問が残る(参与観察的なエスノグラフィにすればよかったのに)。
「合コン時代」という表現が出てくるように、著者は合コンを時代を画するものと捉えているのだが、みんなそんなに合コンやってるのか? 30歳まで無収入院生の自分を例にしてもしょうがないが、合コンなんて行ったことないし(大学入りたての頃に合コン「みたいなやつ」は行ったことがあるが、本書が扱っているような本格的なやつはない)。合コンというのはどのくらいの人(あるいはどんな人)が、どのくらいの頻度で参加するもので、また職場・友人関係をはじめとするホモソーシャリティの中でどんな意味を持っており、さらには恋愛・結婚の世界でどんな意味を持っており・・・みたいな議論がないので、合コン論から恋愛論や世代論に広げる議論に、なんか根拠レスな感じがしてしまう。そこらへんは今後の研究で補ってほしい。
最後に、ほとんどの章題に含まれていて、安野モヨコの漫画で目立つオビにも書かれている「運命(の物語)」という概念が、正直言ってよくわからなかった。まず、「運命」というのは(たぶん)インタビュイーの発言から抽出された言葉ではなくて、著者が持ってきた概念である。ではどういう発言を「運命」という概念でまとめているかというと、「たまたま」とか「偶然」といった言葉だ。これは、言葉の使い方としてかなり不適当だと思う。「運命」というのは、普通の言葉づかいでは、「既定」で「必然」なことを意味する。(だから「運命に逆らうな」とか言われるわけだ。)著者の「運命」はこれとは正反対の意味を賦与されていて、他方で、この正しい意味も当然引きずっているため、「運命の物語に執着する」といった議論が、何を意味しているのかよくわからない。引きずるというのはたとえば次のような議論である。

なぜ、合コンで出逢ったカップルたちは「たまたま」という言葉を連発するのだろうか。
「友人に無理やり連れてこられてたまたま出逢ったんです」
「仕事の付き合いで行ったらたまたま彼女がいたんです」
その理由は、合コンの場での出逢いに「唯一性」が求められているからに他ならない。
(pp. 181-182)

「唯一性」は「運命」を構成する重要な成分だろう。しかしなんでこれが「理由」なのか、その推論の根拠がさっぱりわからない。というか、合コンで知り合うということは必然的に「たまたま」知り合うということでしかないのだから、発言者たちは正直にありのままを述べているだけではないのだろうか。「なぜ・・・連発するのだろうか」という疑問をなぜ抱くのか、そこがわからない。偶然=運命=唯一(=必然)という矛盾をはらんでいるように思う(もちろん、偶然=運命という等式がまちがっているわけだ)。
全体に、著者の態度は(メディアの性格によるのかもしれないが)かなり啓蒙主義的だ。そしてその啓蒙主義を貫くために、対象を過剰にバカ扱いすることになっているのではないか。我々の世代は、「運命」などという素朴な概念では到底とらえきれないような、複雑で微妙な恋愛遂行能力を、つまり初期条件の恣意性(出逢いの偶然性)をその後の日常相互行為の中で克服し、「運命」などに頼らずに幸福をつくっていく、そして「つくられた」(ネタとしての)幸福をも十分に享受でき、また他方では表面的な事柄をうまくやらないと気持ち裏腹に関係が壊れてしまうという不安に耐え、またそれを誤魔化しながら恋愛を続けていくことができるくらいの複雑性を、すでに獲得しているのではないだろうか。本書のレヴューにはざっと見て好意的なものが多いが、それはまさに、読者が被啓蒙者ではなく啓蒙者の側に立てる程度の気付きをすでに得ているからではないだろうか。
以上は自分の感想で、結構批判的だが、その分、他の(同世代や別の世代の、特に合コン経験者の)人の感想を聞いてみたいという気持ちも強く持った。来年度の演習で使いたいが、1年生だからなあ・・・うーん。