福岡伸一『生物と無生物のあいだ』

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

サントリー学芸賞をとった(養老孟司の(どうでもいいw)選評はこちら)というので、途中まで読んで放っておいたのをとってきて全部読んだ。それなりに面白かった。が・・・
タイトルは本書で生物と無生物の境界設定、つまり生命の定義がなされていることを示唆している。そして実際それっぽいものが書かれている。「動的平衡」という概念がそれだ。「動的」というのは生物を形成する物質が次々と交換されていくことを示し、「平衡」というのはにもかかわらず同じ形が保たれることを示している。著者は「流れ」と言い換えている。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」というやつだ。ん、ということは「川」も生物か。そうかそうか。
たとえば湿度100%の部屋の中に水を入れたコップを置いておこう。部屋の中の水蒸気量は飽和しているので、コップの水位は変わらない。ここには「平衡」がある。ところがコップの水は全然蒸発していないわけではない。蒸発するのと同じ量の水蒸気が液体になってコップに戻っているだけだ。つまりこの平衡は動的平衡なのだ。では湿度100%の部屋の中のコップの中の水は生物なのか。
というように、著者の提唱する「動的平衡」という概念は、かりに生命の定義に必要な条件だとしても、まったく不十分なのである。「定義が不十分」とはどういうことかというと、直観的に生命であるとはいえないようなものまで含んでしまうということ、つまり絞りきれていないということである。
著者はGP2という蛋白質を欠いたノックアウトマウスを作ってそれによる機能欠如を調べるが、特に見つからなかったという。つまりマウスが成長する中でその欠如が補完されたといい、そういうことが起こるのがが生命の特質だという。そうかもしれない。ところがそれを先の「動的平衡」で説明しようとする。それはどう考えても無理筋だ。
コップの水は、部屋の湿度が下がれば一定水位という意味での「動的平衡」を維持できない。ところがマウスは、重要な蛋白質の欠如というかなり致命的に思われる操作に対しても「動的平衡」を維持できる。ここにこそ生物と無生物の違いがあると考えるべきではないのだろうか。要するに環境変動に対するシステムの自律性である。著者の行論からすると、こういう議論になるべきだったと思う。そしてそれは当然ながら、「動的平衡」などというあまりにも単純な概念では到底説明できない現象だろうと思う。
というふうに考えてみると、「生命の定義」などというものが、最先端の生物学においてまったく無駄などうでもよい作業であることが逆にわかってくる。
(まあそもそも「定義」というのは研究の結果判明したりするものではないのではあるが。家族社会学とかで、世界中の家族を調べた結果、家族に共通の定義を与えることは不可能だということがわかりました!とかいう人がいるが、はっきりいって意味がわからない。)