バーク『永遠と変化』

Permanence and Change: An Anatomy of Purpose, Third edition

Permanence and Change: An Anatomy of Purpose, Third edition

 Questiaで。むずい。ルーマンお気に入りの「不適合によるパースペクティヴ(perspective by incongruity)」についてちゃんと理解するために。パースペクティヴはニーチェから。不適合というのはそれまでの理解では不適当と思われるような形容詞をつけることなど。異化効果でいろんな見方ができるようになるよ=従来の狭い捉え方から解放されるよ、くらいの意味なんだが。なんか言葉遣いとか難しくて読むので精一杯。

 経済学者の言葉遣いというのは、人間の行為を抽象的・統計的に定式化して記述したものなので、不適合ということの最も顕著な例だといえるだろう。ある人が自分では「貯金」をしているつもりが、経済学者の記述範疇では、単なる「消費の延期」という行為をしていることにしかならなかったりする。経済学者というのはつまり、貯蓄銀行はウィンドウに「年率3%で消費を延期しましょう」と貼り出しているようなものだといっているわけだ。「保険リスク」についても同じようなことがいえる。どの保険加入者も、一人の人間としては、必ずどこかの時点で死亡する。これは単純な二者択一命題であって、何年何月何日にこの人は生きているか死んでいるかのどちらかである。ところが保険加入者という面では、まったく新しい属性を備えることになる。つまり確率である。確率というのは、何年何月何日にこの人が生きているか死んでいるかが、3対1とか4対1とかいうあり方をする。当人もまた自分がこの確率という属性を持っているかのように考えるようになるが、これはある抽象的な集団の成員としての属性でしかなく、この人個人には適用されることのない属性である。個人としては確率など関係ない。死んでいるか死んでいないかのどちらかなのだ。(当人にとって本当に関係があるのは個人としてのことでしかない。)(中略)
 ラロシュフーコーは、物事には近くで見ないといけないものと、離れて見ないといけないものがあるといった。パースペクティヴ論なら、パースペクティヴが策出的であるためには、それまで離れて見ていたものを近寄って見てみたり、近くで見ていたものを離れて見てみないといけないというだろう。あるいはスピノザは物事を見るときには永遠の相の下で見ようといっているが、これに倣っていえば、計画的不適合の方法で見るというのは、物事を意図的かつ体系的に暫定的な相の下で見ることなのである。とはいえその目的は、スピノザが永遠の相の下で、といったときに考えていたものとまったく同じである。(pp. 162-163)