パーソンズ「社会的システム理論ができるまで――僕の場合」

  • Talcott Parsons, 1977, "On Building Social System Theory: A Personal History" in: Talcott Parsons, Social Systems and the Evolution of Action Theory, The Free Press, pp. 22-76

社会的システム、たとえば「社会」というのは具体的な実体ではない。具体的な現実ごとに「行為」をつくる成分というのはその都度異なるわけだが、それら成分間の関係は一定である。この関係の一定性が、社会的システムなのである。(p. 38)

社会主義と資本主義を単純に分ければいいってものでないのとまったく同じで、共同体と社会の単純な二分法というのもまずい。なんか最近の知識人とか見てたら、現代社会のここが駄目だあそこが悪い、だから昔の共同体に返りましょう、とかいっていてうんざりだ。(p. 58)

ポスト産業社会っていう言い方は結構わかる。でもじゃあなんで「ポスト民主」社会ていったらいけないんだろう。こんな言い方したらぜったい怒られるよね。(「ポスト民主」っていっても民主主義はもう終わったっていう意味じゃないよ。「ポスト産業」っていっても産業がなくなったわけじゃないのと同じね。)(p. 62)

 『社会的行為の構造』ではすごい重要な理論的主題をいくつも扱っていて、それはたとえば自己利益と経済合理性についてこれまでどんな考え方があったかとかそういう感じなんだけど、その中でも突出して重要なやつがあって、それは今に至るまでいろいろと形を変えながらずっと重要であり続けてる。そのときに使った言葉だと「秩序問題」ってやつだ。これは一般には人間の条件の話しだし、特殊には社会的システムの話だ。これの古典的な定式化は、初期近代にホッブズが考えた「自然状態」の概念で、要するに人間の社会ってやつは、まあいろいろあるとはいえ、全体としてみれば「万人の万人に対する戦争」状態にはなっていないよね、これなんで?っていう問題だ。(そりゃ歴史上に戦争はたくさんあったわけだけど、それは社会的システム同士の戦争であって、個人と個人の戦争じゃないよね。)(69)

(69)僕が秩序問題を考えるときにはカント的なアプローチをとっている、ってことは書いといた方がいいかな。まあ大雑把に言うと、経験的知識の認識論の話なんだけど、ヒュームは「外界についての妥当な知識は可能か」って問いを立てて、まあ不可能だよね、って答えた。これに対してカントの問いの立て方というのはもっと複雑なんだ。カントはまず「我々は外界についての妥当な知識を持っている」と言い切っちゃって、その上で、「で、どうやってそれが可能になっているか」って問うたんだ。つまりどんな前提が必要か?ってことだね。おんなじように社会理論でも、社会的秩序は可能かって言う問いを立てる人がいる。で、往々にして不可能だっていう答えになる。僕の場合はそういうのとは違って、社会的秩序が、まあ不完全であれ存在しているっていうのはいつも前提なんだ。で、その上で、社会的秩序が存在しているという事実がどういう条件の下で成り立っているかって考えるんだ。

 僕とホッブズで共通している考え方というのがあって、それは人間の社会に秩序がある、それはいいとして、でもそれをただ「物事の自然なあり方」だと考えるんじゃなくて、一つの問題だと考えてみようっていう発想だ。この点ではキリスト教悲観主義から受け継いだ部分があるのかもしれない。それはともかく、ホッブズ自身の解決っていうのは、「社会契約」で絶対主権を樹立して秩序を強制してもらいましょう、っていうあれだったけど、これは1930年代にこの解決で満足する人っていうのはもういなかった。でも問題自体は残ってる。僕はヴェーバーとデュルケム、それから実際には言ってないけどほんとはこう言いたいんでしょってことでパレート、この三人を結びつけたわけだけど、その一番重要な理由っていうのが、この人たちはみんなこの問題が学問的に深刻なもんだってことに気づいていて、しかも、人間の行為には普通の意味での経済的な利益とか、政治権力への関心といったものとは分析的に独立した規範的成分というものがあって、それが決定的に重要なんだってことを確信していたってことなんだ。デュルケムは契約関係のシステムの構造とか統制の中に規範的成分が含まれていることを発見したんだけど、僕が自分で概念化するときにこれがすごい参考になった。実際、デュルケムはこの議論のところでホッブズの名前を出してるんだ。で、こういう意味での秩序というのは本質的に問題的なもので、その不安定さと、にもかかわらずそれが存在するための条件というのは、政治的な立場云々とは関係なく、人間社会というものについて当時出回っていた考え方ではうまく捉えられないっていう意見にすごい賛同した。この種の問題っていうのは、学問的に妥当な分析とか理解といったものと、なんか大衆人気が出るようなイデオロギー的な定義とはまったく違うものになるんだ。もちろんいつも明確な線が引けるというわけではないけど、ほとんどの場合はそうだね。
(p. 69)

Social Systems and the Evolution of Action Theory

Social Systems and the Evolution of Action Theory