『エスノメソドロジー』

 おかしな議論発見。

既存の社会学では、社会においては前もって合意があるからこそ、安定した行為が繰り返しなされると言われていました。「あいさつ」をしたら「あいさつ」をするというのは、お互いに前もって「あいさつの規則」を事前に知っているから(つまり「社会化」されているから)だとしていました。しかし、「あいさつ」の後に「沈黙」があったとき、この規則は存在しなかった(あるいは、規則が破られた)のでしょうか。そうとは限りません。(中略)このように考えれば、行為者同士による事前の合意(たとえば「社会契約」)によって統制されるという考えは、「あいさつ」をすればかならず「あいさつ」を返すというように行為者を「判断力喪失者」としてしまうと批判されるものになります。(pp. 17-18)

 〈合意があるからこそ、規則を事前に知っているからこそ、社会化されているからこそ、挨拶に挨拶が返される〉というのは、合意・規則についての事前知識・社会化(以下、「合意」で代表させる)が、相互挨拶の必要条件であるということを言っている。これの否定は、合意は相互挨拶にとって必要でないということ、つまり、合意がないのに相互挨拶があるという事態である。
 ところが挙げられている反例は、合意があるのに相互挨拶がないという事態である。この命題が真であるなら、否定されているのは合意が相互挨拶の十分条件であるということ、つまり合意があれば必ず相互挨拶があるという事態である。最後の、統制とか判断力喪失者云々の話は、明らかに十分条件性を批判している。
 当たり前だが、十分条件でないからといって必要条件でもないということにはならない。したがって、引用文冒頭の「既存の社会学」の考え方はこの議論では否定されていない。

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

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