初代会長Lester Frank Ward(1906-1907)

米国社会学会サイトの紹介文

 米国社会学の父の一人に数えられるLester Frank Wardは、1841年6月18日、Illinois州Jolietに、Justus WardとSilence Rolphの息子として生まれた。Ward家は貧しく、Lesterに正規の教育を受けさせるだけの金銭的余裕はなかった。そのため少年時代のWardは独学で様々なことを学んだ。独学で5つの言語を習得したという報告が複数ある。数学や地質学も勉強した。
 Frankがまだ少年の頃に、Ward家はIllinois州からPennsylvania州Myersburgに引っ越した。昼間は兄のCyrenusとともに家業の車輪屋を手伝い、夜になると本にかじりつき、知識と勉強への意欲をいや増していった。子供時代の貧困と、その後の車輪屋での重労働が、Wardの中で、社会の不正義や不平等に対する怒りを醸成したのだとも言われている。
 1860年代前半に、WardはTowanadaのSusquehana Collegiate Instituteの授業に出席するようになった。1862年8月13日には “Lizzie” Caroline Boughtと結婚した(BoughtではなくVoughtとする資料もある)。南北戦争が始まると、WardはPennsylvania地方連隊に入隊し、Chancellorvilleの戦闘で重傷を負った。故郷を離れて戦闘に参加していた兵士の多くが日記をつけており、Wardも例外ではなかった。この日記はWardの死後何年もたってから発見され、『青年Wardの日記――1860年から1870年にかけて人間的にまた激しく生きた記録』というタイトルで出版された(現在でも入手可能)。社会や不平等についてのWardの思考は、南北戦争の経験とその後の数年間を通じてさらに深められていった。
 戦後、Wardは独学を続けながら、連邦政府で働き始めた。1865年から1881年にかけて、Wardは米国財務省に雇用されている。貯蓄と忍耐の日々が何年も続いた後、Wardはついに自分の夢を実現させた。Columbian College(現在のThe George Washington University)に入学したのである。Wardはここで1869年に文学士(A.B.)を、1871年に法学士(LL.B.)を、1872年に文学修士(A.M.)を取得している。
 1882年には米国地質調査局(USGS)に地質学助手として雇われ、このポストを2年間勤めた後、1889年に地質学研究員に、1892年には古生物学研究員に昇進し、連邦政府でのその後のキャリアをずっとここで過ごした。
 1882年にはUSGSでの仕事に加えて、国立博物館の植物化石局の名誉館長に就任している。1905年にUSGSを退職するまで、Wardは植物化石の国立コレクションの責任者を続けた。
 連邦政府のキャリアを辞した後、Wardは新しいキャリアへと踏み出した。1905年にBrown UniversityのJames Quayle Dealeyに手紙を書き、同大学で教職につく可能性があるかどうかを訊ねている。Dealeyからの返事は好感触だった。同大学総長のWilliam Faunceとの交渉を経て、1905年後半に、Wardは教職に就くことになった。1906年の秋にはProvidenceに引っ越している。この転居について、Raffertyは次のように述べている。「WardのBrown Universityへの就職は彼の研究者としての経歴における最高点だった。社会的、科学的な主題について研究し著述する長い旅路の中で最も輝かしい出来事だった。」
 Wardの業績で我々の記憶に最も残っているのは、社会学における先駆的な研究である。1883年から1913年に没するまでの間に、Wardは数々の重要な仕事を完成させている。その中からいくつかを挙げるなら、『動態社会学』(1883年)、『社会学概論』(1898年)、『純粋社会学』(1903年)、『応用社会学』(1906年)がある。Wardによる社会学への最も重要な貢献は、社会法則というものは、ひとたび発見された後は、制御し操縦することができるものなのだと主張したことである。
 Wardは社会の中で、階級間、人種間は平等であるべきだという考え方を支持していた。また女性も平等でなければならないと考えていた。普通教育こそが、この平等を実現するための手段となると考えた。彼の発想の大半は、当時の男性たちには不人気であったが、おそらく今日の読者にはもっと受け入れられるだろう。
 1905年の夏、Wardを初めとした多くの著名な同僚たちが、全国の社会学者と、社会学を専門とする新たな学会の設立可能性について議論する会議を開始した。1905年12月Baltimoreにて、Wardたちは米国経済学会の年次大会の一部会として、この件に関する議論を行った。その結果、Wardらは新しい学会、米国社会学会の設立を議決することとなった。1906年から1907年にかけての新学会の初代会長に選出され、Wardは驚いた。
 米国社会学会の会長として、Wardは1906年と1907年のそれぞれの年次大会で会長講演をしている。Wardの会長講演の全文は以下のリンクから読むことができる。

 1911年の初頭、Wardは体調を崩した。1913年4月18日Washington, DCにて没する直前まで、Wardは研究と教育を続けた。
 Wardの少年時代の生家があるPennsylvania州Myersburgには、今日、Wardの経歴と社会学への貢献を称える史跡が立っている。

「米国社会学の父」にして地質学者、南北戦争に従軍したL. F. Ward(1841-1913)は、少年時代をMyersburgで過ごし、労働史家の兄Cyrenus Osborne Wardとともに車輪工房で働いた。「米国のアリストテレス」と呼ばれた。

 1883年にWardは、George Washington Universityに、出生、少年時代、その後の生活経験について記した2ページにわたる手記を提出している。この手記は今日、George Washington UniversityのGelman LibraryにあるWardの原稿のコレクションの中に収められている。これは規模は小さいが価値の高いコレクションである。資料を探す際には、「Guide to the Lester Frank Ward Papers」が利用可能である。
 Lester Frank Wardの書いた文章、およびWardに関する文章について、もっと読みたい人は、以下のリストを参照してほしい。(リスト略、上記ASAのサイトを参照)